門坂流へのオマージュⅡ 建石修志

眠る四月-死と再生 2015 鉛筆、ケントボード 240x326mm

【コメント】

“門坂流の居た頃

門坂流が亡くなってもう4年が経とうとしている。彼と付き合っていた日々がなんとも懐かしく思い出される。門坂とは東京藝大の同級生であった。もっとも彼は油絵科、こちらは工芸科、キャンパスで歓談することもなかったが、時が時、大学闘争(紛争)の真っ只中。上野の山の上でも少しは燃えていたのだ。授業はボイコット、そして自主講座、デモ、集会と大学の自治会とは別に専攻の科とも関係なく小さなグループが集まっていた。そんな中で小柄な門坂だが、妙に目につき、どんな奴かと見つめて居たものだ。後年、当人は「若い頃は二枚目だった」としきりに語るのだったが、果たしてどうだったか、少しばかり、否、大いに怪しい。
門坂と付き合いが始まったのは、1987年のINAXでの個展からで、藝大時代から大分時間が経っている。彼と私は殆ど同じ時期からイラストレーションの仕事を始めていて、雑誌、書籍などでお互いの仕事を眺めていた。門坂はペン、こちらは鉛筆。共にモノクロームの世界だった。門坂は油絵科でありながら所謂日本の画壇をもっとも毛嫌いし、私はデザイン科でありながらフリーランスの絵描きを頭に描いていた。美術は「現代美術」の潮流に大きくシフトしていき、旧態依然の画壇には何の魅力も感じないというのが当時の我々の共通の感覚でもあった。しかし、それでも「美術」とはもっと違うもの、「美術」というカテゴリーからさえも離れた何ものかに惹かれていたというのが、多分我々に通底していた志向だったのだろう。「眼に見えないものを視ること」そして「手と繋がること」その為の様々な試行、本を読む、映画を観る、音を聴く、舞踏を観る、肉体労働をする、その他諸々の事象がいずれ立ち現れるだろう自分自身の何ものかのために用意されて居たのだ。彼は何と「暗黒舞踏」のエキストラとして金粉ショーにも出ている。
門坂はペンによるイラストレーションから銅版画へと表現領域を拡大し、エングレービングへと進む。イラストレーションの仕事にもびっくりしていたが、エッチング、エングレービングの作品にも感嘆させられた。そうして事あるごとに盃を交わしたが、作品のこと、社会のこと、細々とした個々のことを朝まで話し続けたこともあった。酔っては自身の出自の話を何回も聞かされることもあったが、つい格好をつけたくなってしまう我々に比べ、彼ほど正直に内心を吐露する友も珍しかった。だからこそ作品が輝いて見えた。何点か作品を購入もした。何となく「天才」という言葉は恥ずかしいが、紛れもなく彼、門坂流は「天才」だったと思う。
彼についてのエピソードは語れば山ほど出てくるが、今は、もうここには居ない門坂を懐かしく想い出しながらグラスを傾けよう。
「おい門坂! そっちでも作品作っているのかー?」