北川健次: トラベラーズ・ジョイ小論

 傷つけた線が持つ匿名的な親近性からなのか、或いはヴェネツィア・ビエンナーレで国際大賞の評価を受けたという事実の故なのか、ともあれ前期のらくがきスタイルをもって<池田満寿夫>の全てと断じてしまう傾向があるが、それは全体の一部を照射したにすぎないように思われる。事実は、例えば『タエコの朝食』が持つ女性性の凶暴な韻は絶える事なく時を潜り抜けて、『スフィンクス』シリーズの妖しい謎を帯びた巨大な女性性の暗黒の象徴性へと羽化している。そして、そこに息づいているのは「永遠の胎児」とも云える池田満寿夫の感性の、なおも変わらぬフェティッシュなまでの受動的な恍惚の震えであるだろう。色彩が転調し、技法がドライポイントからメゾチントに移行しただけで、池田満寿夫の本質にあるポエジーとエスプリは更なる幅を広げて深化し、変奏していっているのである。

 池田が『スフィンクス』シリーズ(1970年)を作り上げた時に強く意識していたのはシュルレアリスムの体現者―瀧口修造の存在であるが、1973年に発表された西脇順三郎との詩画集『トラベラーズ・ジョイ』では、この国が生んだ最大の詩人の言葉の世界と池田のヴィジュアルが先鋭に切り結び、<永遠の旅人>である西脇の眼差しと池田のそれは同化して、詩画集の可能性に光ある一つの金字塔を立ち上げた。それは同時に、シュルレアリスムなどからの影響から離れて日本的なものへと回帰していく池田のその後の、それは未だ見えない発芽のような意味を持っていたのかもしれないと、私は今にして思うのである。トラベラーズ・ジョイという言葉には、(旅行者の喜び)と(ぼたんづる)の二重の意味がある。そして、西脇が「寺院」と記す時に、そこに同時に立ち上るのはローマと奈良である。旅人はローマやフィレンツェを逍遥しながら、まるで霊魂のように瞬時にして多摩川を歩く旅人へと化す。西脇の言葉が持つ多義性は、同音異義のように遠い物同士を連結し、位相とシンタックスを曖昧にすることで私達の想像力をさらに煽って、マチエールの異なる二重の抒情性をそこに立ち上げる。池田もそれを受けてイメージを暗示の内に留めながら九幕からなる「悪い夢」「白日夢」のような可視のヴィジョンを鮮やかに展開している。『トラベラーズ・ジョイ』は、池田の文学的なるものへの接近が最大限に開示されたといっていい作品群なのである。