「名作のアニマ 駒井哲郎・池田満寿夫・北川健次によるポエジーの饗宴」について、北川健次が書いたテキストをご紹介します。
また、池田満寿夫美術館学芸員 中尾美穂 『池田満寿夫と70年代-マルチプルな活動』も掲載しております。
北川健次オフィシャルサイトに本人によるコラムが掲載されています。
北川健次オフィシャルサイト/コラム 『東京日本橋・不忍画廊』
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最近の私が集中的に取り組んでいるのは<コラージュ>である。銅版画やオブジェが持つ禁欲性から解き放たれたように、コラージュは私をして、私の内なるイメージの官能性を前面へと押し出し、謎を謎のままに宙吊りとして、あたかも<書かれなかったロマネスク異聞>を書き記すかのようにして、消え去りそうな寸秒夢の定着を可能にしてくれるのである。
コラージュの来歴を西洋の近代史に沿って見れば、先ずはピカソに始まり、エルンストが詩学にまで高め、かのコーネルは、ダリやエルンストから想を得て霊性を帯びた深いヴィジョンを呈示した。しかしこの国にそのルーツを辿れば更に古く(方法論という認識はなくとも)、扇面図屏風や若冲の<部分>にそれを見てとる事も可能なのである。
異なった文脈のイメージの断片を切り取って強引なままに統一化し、そこから新たなる位相のヴィジョンを立ち上げるという、このコラージュと言う手法は、私たちが見る夢の構造にも似て、私たちを日常性から引き離し、深層に棲まう今一人の自分との対面を可能にしてくれる、一種イメージの錬金術のごとき秘法なのであるまいか・・・。私は作りながら、その事を想い、作り上げた後も又、改めてその事をありありと実感するのである。私という存在を中心にして、ギリシャ、ルネサンス、バロック、ロマネスク、シュルレアリスム、そしてダダといった美術史上のイデアはことごとく等距離の円状に並んで私のイメージの具となり、私はそこに<現在>という時世粧を絡ませながら、一人独自の美学(更には詩学)を立ち上げるべく試みを続けている。コラージュこそは、私の内なるポエジーを直接的に具現化してくれる、手応えのある方法論なのである。
北川健次 「VICENZAの羽撃く鳥の翼」
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私が駒井哲郎から受けた最大の影響を考えてみると、それは駒井が常に語っていた「インクは立ち上がっていなくてはいけない」という、執拗なまでのこだわりへの吸収がそれであったように思われる。つまり銅板という硬質な素材、硬質なインクを媒体としてのイメージの刻印、イメージの物質化である。故に多くの版画家にとっては唯の版画紙という素材にすぎない物もまた、私にとっては危うさを持ったイメージの支持体というスリリングな存在として映ってくるのは当然の事なのである。駒井は紙についてはそこまで言及していないが、彼のこだわりの神経の在り様は、そこにまで及んでいたように思われる。私は今、イメージと記したが、それをポエジーという言葉に詰めて置き換えても、ここでは良いかと思われる。書き直してみると、銅板という硬質な素材・硬質なインクを媒体としてのポエジーの刻印・ポエジーの物質化とすれば、焦点が更に定まって来よう。
ポエジーというものは、何も言葉を通して詩人と称する人達だけが紡ぎ出す占有物ではない。空間・時間芸術の垣根を超えて、映像・音楽・小説・舞踏…そしてクレーの如き絵画や、その他、様々なジャンルにおいてそれの顕在化は可能なのである。更に言えば、私達の存在の郷愁の哀しみの内に、それは既にして存在しているのである。
何よりも本質的に鋭い詩人の感性を持った人が、この国の銅版画の黎明から発展へと至る端境期に登場し、宿命を背負うようにして銅版画の可能性を放射して見せた。それが駒井哲郎という現象であると、私はその人の事を捕えている。この寡黙の人は、その内に囲う荒ぶるアニマを御すようにして静謐の韻に変え、独自の様式性をもって定型の美へと、そのポエジーを結晶化して見せた。その表象の内に宿るのは、未生の魂のような過剰なまでの含羞(がんしゅう)を帯びた或る種の<悔恨>である。しかしこの内省さらには内観の翳りある精神の産物が、今日の物質優先主義と化した時代に在って、人々の精神の拠り所として、更には観照の対象としての重い意味を帯びてきているという事は、もっと考えてみるに足る意味があるだろう。この軽くなってしまった時代が駒井哲郎を受容したのではない。この薄い時代の臨界が希求するようにして、駒井哲郎の遺した作品群を必要としてきているのである。
それを云い換えれば、時代がようやくにして駒井に追いついた、―そういうふうにも云えるかもしれないのである。
駒井哲郎 「果実の受胎」
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傷つけた線が持つ匿名的な親近性からなのか、或いはヴェネツィア・ビエンナーレで国際大賞の評価を受けたという事実の故なのか、ともあれ前期のらくがきスタイルをもって<池田満寿夫>の全てと断じてしまう傾向があるが、それは全体の一部を照射したにすぎないように思われる。事実は、例えば『タエコの朝食』が持つ女性性の凶暴な韻は絶える事なく時を潜り抜けて、『スフィンクス』シリーズの妖しい謎を帯びた巨大な女性性の暗黒の象徴性へと羽化している。そして、そこに息づいているのは「永遠の胎児」とも云える池田満寿夫の感性の、なおも変わらぬフェティッシュなまでの受動的な恍惚の震えであるだろう。色彩が転調し、技法がドライポイントからメゾチントに移行しただけで、池田満寿夫の本質にあるポエジーとエスプリは更なる幅を広げて深化し、変奏していっているのである。
池田が『スフィンクス』シリーズ(1970年)を作り上げた時に強く意識していたのはシュルレアリスムの体現者―瀧口修造の存在であるが、1973年に発表された西脇順三郎との詩画集『トラベラーズ・ジョイ』では、この国が生んだ最大の詩人の言葉の世界と池田のヴィジュアルが先鋭に切り結び、<永遠の旅人>である西脇の眼差しと池田のそれは同化して、詩画集の可能性に光ある一つの金字塔を立ち上げた。それは同時に、シュルレアリスムなどからの影響から離れて日本的なものへと回帰していく池田のその後の、それは未だ見えない発芽のような意味を持っていたのかもしれないと、私は今にして思うのである。トラベラーズ・ジョイという言葉には、(旅行者の喜び)と(ぼたんづる)の二重の意味がある。そして、西脇が「寺院」と記す時に、そこに同時に立ち上るのはローマと奈良である。旅人はローマやフィレンツェを逍遥しながら、まるで霊魂のように瞬時にして多摩川を歩く旅人へと化す。西脇の言葉が持つ多義性は、同音異義のように遠い物同士を連結し、位相とシンタックスを曖昧にすることで私達の想像力をさらに煽って、マチエールの異なる二重の抒情性をそこに立ち上げる。池田もそれを受けてイメージを暗示の内に留めながら九幕からなる「悪い夢」「白日夢」のような可視のヴィジョンを鮮やかに展開している。『トラベラーズ・ジョイ』は、池田の文学的なるものへの接近が最大限に開示されたといっていい作品群なのである。
西脇順三郎+池田満寿夫 詩画集『トラベラーズ・ジョイ』展示風景 | 収録作品 「アウグストスに寄せて」 |
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“時代の寵児”といわれた池田満寿夫。けれども時代の主流をめざした作家ではない。独自の路線を走りつづけた作家である。
1960年代末から1970年代に起こった国内外の多様な美術動向とも、距離を置いた。とくに映像表現の進化に対して描写の力を主張し、技法のテクニックに力を注いだ古典的な主題の新作を発表しはじめた。その作風は美術史を逆行するようにみえる。しかし当館で「モダンとは何だろう? 池田満寿夫60-70年代のファッション」展を開いたとき、彼の古典主義がファッション・モード史からみて最先端だったのを確認して納得した。依然として着眼点がユニークに思えたのだ。
70年代はリバイバル・ファッションが世界に広がった。ブランドが打ち出すハイ・ファッションはカジュアルになり、エレガントだが装飾過多、奇抜だが古着のようなドレスやコートが登場して醒めた復古趣味が流行する。「スフィンクス」(1970年)、「七つのリトグラフ」(1971年)、「七つの大罪」(1972年)、「トラベラーズ・ジョイ」(1973年)、「ヴィナス」(1975年)等の連作を中心とする70年前半の銅版画やリトグラフに、今いちど目を留めてほしい。女が世紀末のアール・ヌーボー風の服を身につけており、随所に装飾パターンや布の襞が描かれている。これが半ばになると金具や紐飾りにとって代わられる。同時期に多数制作されたフロッタージュの方は、ポルノグラフィックな写真を雑誌から転写したために最新モードとは関係ないが、写真の選択が恣意的である。選ばれているのはレースのベールやリボンや飾りのついた帽子、フリルのついたブラウスなどで、古めかしい退廃的なエロティシズムを誘う。モデルの周囲の光景も溶剤で消され、絵具で陰影や滲みを施されて生々しさを失い、物悲しい夢想の世界へと変貌する。
近年のファッションにも70年代的要素が多い。ゆったりしたライン、クラシカルなスタイル、花柄やスタッズなどが繰り返されている。池田作品を身近なものとして観るのに良いタイミングといえよう。作品名が思わせぶりなのもこの時期の特徴で、非常に暗示的だが、これも過去の解説にとらわれない新しい論点があらわれるかもしれない。
ここまでファッションについて書いてきたが、彼は単に「ファッションをひとつの素材として」使ったと明言している。最初は1961年か62年に『ヴォーグ』でコラージュを作り、アメリカでも『ヴォーグ』と『プレイボーイ』を買い込み、そのイメージで版画を作った。70年代の作品も雑誌のコラージュが原案である。要するにファッション・エステティックといわれるファッション写真の芸術性を版画に応用している。服そのものや流行には関心がなく、グラフィックの面白さや新鮮さで写真を見ていたといい、「ファッションというのは死滅するかもしれないけれど、死滅するがゆえにものすごくその時代を尖鋭的にあらわしている」という(1)。美術の中心にいては客観的に俯瞰できない、文化全体の空気感が狙いだったのだろうか。そういえば70年代の悪趣味(キッチュ)や閉塞感、コンセプチュアル・アートの広告的な要素などは、池田作品にもさりげなく取り入れられているように感じる。
ところで小説家、映画監督と肩書が増えたのも70年代である。1977年に小説「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞受賞、翌1978年に受賞作の映画化で脚本・監督をつとめた。池田満寿夫が最初の小説「ガリヴァーの遺物」を発表したのは1971年だが、小説家としてデビューしたのではない。雑誌の巻末企画によるものだった(2)。だが同作でストーリー・テラーの力量を存分に示したと思われる。愛書家が飛びつきそうな、風変わりな短編である。
中学時代からの親友だった画家の岡澤喜美雄氏は、彼がマルチ・アーティストと言われていたことについて「高校時代にその要素がすべて出揃っていた」と述べている。それほど情熱家だったという文脈での言及だが(3)、裏付けとしては、同人誌に発表した詩や文章、未発表のノートなどが思い当たる。地元バレエ団の発表会のアルバイトで美術を担当したこともあったという。デビュー後には版画集や豆本で自作の詩を発表しており、驚くにはあたらない。それよりも「挑む」のは容易だが、そのジャンルでの「新奇なもの」をつかみとり、即興的に表現する力に驚かされる。思えばファッション写真の素材をコラージュしつづけたのも、他者にはないそうした直観力を自負していたからだろう。
余談だが、芥川賞獲得を機に生活が一変したとされており、自身もそれまでは静かな生活だったと書いているが鵜呑みにできない。取材攻勢で生活を乱されるまでは、という程度の意味か。受賞年の版画制作はたしかに2点と少ないのだが、前年1976年もリトグラフ集「ミクスト・フルーツ」で鮮烈なスタイルを打ち出しており、銅版画が少ない。これは忙殺とみるよりも、緻密なメゾチント技法による古典主義からのゆるやかな離脱期とみることができる。そもそも池田満寿夫は長年ニューヨークと東京、両都市を拠点に活動しながら、制作のほかに執筆や装幀に精力を注いでいた。関係者宛の手紙をいくつかみても、息をつく暇もないほどの毎日である。それなのに時間をどう捻出したのか不思議なほど、連日、長文で親密につづられている。友人や契約画廊の証言でもみな一様に、彼が大変なサービス精神の持ち主だったという。マルチ・アーティストが代名詞になったことは、池田満寿夫が創作の才能だけでなく交渉力やプロデュース・センスなど、たぐいまれな資質に恵まれていたことも物語っている。
(1) 対談:池田満寿夫/飯田善国「女の子の目じゃなくて、アーティストの目で「ヴォーグ」をみると」『藝術新潮』1980年3月号、新潮社
(2) 『草月』1971年12月号 草月出版 *他に瀧口修造、針生一郎、武満徹ら数名の作家・評論家が幻想的な詩や短編を発表した。
(3) 岡澤喜美雄氏ゲスト・トーク、2013年5月11日、池田満寿夫美術館