中学に入った頃、寺田寅彦の随筆を読んで「墨流し」というもののあることを知り、それに興じたことがあった。水面に墨汁を少量垂らし、その浮遊している墨汁のなかへ油を付着させた縫い針の先端をつけると、墨汁が輪状にさっと拡がる。それを繰り返すと、墨汁の輪と油の輪が交互に並ぶというパターンができる。輪状と書いたが、じっさいにはその輪がゆがんで、複雑に入り組んだパターンになるのが面白かった。
門坂流のペン画を見た時、私は私にとっての昔なつかしい「墨流し」を想いだした。門坂は墨汁を使ってケント紙の上にさまざまなパターンを描いている。そのパターンは無数の線によって形成されているが、それら無数の線は「墨流し」と同じように交錯することがない。墨による黒い線と白いケント紙の地が交互に並びながら、全体としてのひとつのイメージがつくりだされているのである。
もっとも、門坂の作品を見て「墨流し」を想いだしたのは、あくまで私の個人的な連想であって、門坂のペン画が「墨流し」に端を発しているとか、それに示唆されて生まれたなどというわけではない。連想というなら、この作家の作品はもっと広く流体のつくりだす流線とか流紋を想起させる。水に典型的であるさまざまな流線や流紋は、自然のうみだすおどろくべきパターンといっていいものが、それはまた自然のもっとも根元的なパターンでもある。
門坂のペン画は、さまざまなイメージをこの流線や流紋という根元的なものに還元した上で再構成しようとした所産だと見ることができよう。彼は、水のつくりだすパターンを再現するのではなく、自然が流線や流紋によってつくりだされていることを示している。
図像的にいえば、流線や流紋の図像化は石器時代からそれを見出すことができる。洋の東西を問わず、絵画の要素として、さまざまなものの装飾のパターンとして、また模様として登場しているのは周知であろう。たとえば渦巻き状のそれはもっともよく知られているものにちがいない。門坂の作品は紋様化ではなく、流線や流紋をイメージ形成の基本要素にするということで際立っているのである。
興味深いのは、こうした流線あるいは流紋によるパターンというのが、大きさという次元を超えているということである。たとえばスケールの小さいものは線の密度が大きく、巨大なスケールのものは密度が粗いかというとそうではない。小スケールのものでもゆったりとした密度のもあれば大きいものでも微細な流線構造を示す場合が珍しくないからである。門坂の作品はいわゆる大作ではないが、その画面を見ているとスケールという次元が消えているように感じられる。そこには宇宙が感じられるといって過言ではあるまい。
(「門坂流展 流紋」(1987年 INAXギャラリー2)カタログより)