池田満寿夫/1934-1997 旧満州生れ。画家・版画家・挿絵画家・彫刻家・陶芸家・作家・映画監督などの従来の芸術の枠にとどまらず多彩に活躍した芸術家。
-池田満寿夫について- 話:荒井一章
不忍画廊当主荒井一章(現在は不忍画廊会長)とは高校の同級生。15歳の時に長野北高等学校(現長野高等学校)で出逢う。
当時の印象は、読書好きの大人しい男だが、やると決めたら上手は関係なしにやりぬく、芯の強い少年だった。
1961年4月、産経新聞の記者をしていた荒井が美人姉妹が切盛りしている画廊で池田の初個展があることを知り、不忍画廊に取材に赴き再会。
当時池田はとても貧乏していた。動くと揺れてしまうようなボロ家に詩人の富岡多恵子氏と二人で住んでおり、内職で豆本を作って生活の足しにしていた。
その豆本というのは、江戸川乱歩の次弟の平井蒼太氏の依頼により、江戸川乱歩の小説を豆本にしたものであった。
同年(1961年)、池田が装丁を手がけた富岡氏の詩集『物語の明くる日』が第2回室生犀星詩人賞を受賞。御礼の挨拶に室生犀星宅へ行った際、その豆本を土産としてあげたそうだ。室生氏は「こんなものが米麦のたしになるのか?」と怪訝な顔をしていたという。
<中央 池田満寿夫、右 堀内康司>個展会場にて・・・「池田満寿夫銅版画展」1961年4月24日~29日 不忍画廊
第2回東京国際版画ビエンナーレ展受賞後の翌年(1961)たびたび不忍画廊に来ていた堀内氏からの強い推薦があって不忍画廊(当時は上野池端)で銅版画の初個展を開催。受賞直後ではあったが、銅版画や池田の作風は、当時の日本ではまだまだ難しい芸術であり、美術ジャーナリスト等からも「ほとんど無視された…」と池田は後年、自叙伝に書いている。
会期中は当時のパートナーであった詩人の富岡多恵子氏と共に毎日在廊。風邪で体調不良にもかかわらず毎晩友人たちと酒を飲みに出かけ、富岡氏に怒られたというエピソードも。
<上記1961の初個展でも展示された4点>池田満寿夫展“1966”(2013.2月、不忍画廊・日本橋)での展示風景
左端の1点「月の祭り」(パリ青年ビエンナーレ展受賞作)、右3点「女の肖像」「女・動物たち」「女」第2回東京国際版画ビエンナーレ展《文部大臣賞》受賞作(堀内康司氏旧蔵)
<下段左端 池田満寿夫、上段右端 荒井一章/不忍画廊会長>
長野県立長野北高等学校(現長野高等学校)1年生の頃の集合写真。 荒井一章とは、ガリ版摺りの同人誌「アゼリア」を一緒に出していたり共に文学青年だった。作家と画廊という関係を超え晩年までずっと友人関係として続いていく。