ヨシダ・ヨシエ

ボンデージ、あるいはフランス語のリゴタージュなどという用語が使われているようだが、成田朱希の描く緊縛された少女たちの姿態は、わたしに胎内の暗示を連想させる。受動的に自由をうばわれた姿態をとらされると、動作が自発性をうしなってしまい、もとへ戻らなくなってしまう、医学用語でいうカタレプシー。極度に病的な緊張、ヒステリー、催眠状態などのとき起る、ギクシャクしたスパズムだが、胎児が子宮内のその空間条件で、からだを窮屈そうにしながら、微かにうごくさまと、それは連想的に類型し、同時に新生児のエロティシズムのように自閉的である。性生活の起源の論稿『タラレッサ』で有名なハンガリーの精神分析学者サンドール・フェレンツィによれば、催眠と性交は発生論的相互依存の関係にあり、催眠は自己造形的手段をとり、性交は他者造形的ということになるが、夢が胎内の記憶にむかって溯航し、光の交錯するヒーメンのカーテンをひらくと、そこはレトロスペクティブなステージであって、イートン・クロップの髪型をした女たちが、カクテルグラスを手にうつろなまなざしを投げているのだ。それはタラッサの海を遠く眺めているにちがいないと、わたしはおもうのだが、それは肉体ではなく、肉体に関する意識のインパルスが、シャンデリアのようにかがやき、わたしは、成田朱希の郷愁がとってもメタフィジカルにおもわれるのだ。

ヨシダ・ヨシエ