夢のなかの風景は不安定で、流動的で、部分がひどく鮮明でその周りは朧で、地面が綿のように軽く空が金属のように硬い、と感じたりはしませんか。心理学者はそういう非現実の空間をどう説明しているか、私は不勉強ですが、詩を書く者としてはその光景を愛して「天賦の贈りもの」だと、ひたすら満足しています。
自分の身体を取り囲む俗世のなかにあって、その変化の妙に心を奪われるこことも多いのですが、それとは反対に現実から身をかわしたいという思いも秘めているものです。無意識に現実から逃げようとしているのでしょう。その逃げ場が夢の世界です。はかなく、哀しく、淡く、もろく、美しい虚構です。
ときとして、そこが迷宮になったりしますが、そこにはいり込んで楽しもうとは思いません。数学の苦手な人が微分・積分を教えられ答えが出ずに苦しんでいるときのような、そんな憂うつと疲れが出るからです。迷宮ではなく、さらっとした構図で風通しがよくて、やはり現世とはちがう光があって、そこを歩いていくとき肉体の重量感が無く身心ともに軽やかになる世界が、もっとも好ましい夢の空間でしょう。
詩を書く者は、つむじ曲りですから、目を開けていながら夢の世界にこの現実を溶かしてしまおうとする癖を発揮します。大地の上に家屋が建って庭があって木が生えて人間たちが雑念にとりつかれ往き来する…この現実が、詩想の高まりといっしょに見る見るうちに虚体になっていくのです。それは私の救いの時です。俗世にあって同時に夢の世界を共有するなんて贅沢ですが、そんな瞬間をたくさん持ちたいと願っています。
安元亮祐さんの絵を見せられたとき、「うらやましいな」と思いました。画家に対する詩人の嫉妬だったのかもしれません。安元さんは夢の世界を伸びやかに描いていて、何の気負いもなく「夢中の主人公」の眼であたりを散策しています。そこいら中を歩きまわっても疲れる様子もなく、無心の少年のように足どりも軽く、星の光とそっくりの澄んだ目で風景と向き合っています。
安元さんは、見えるものすべてを歌わせるシンフォニーのコンダクターです。しーんと静まりかえったあたりの空気が、光を呼びます。光は何の計らいもなく空気を聖化していきます。物も街も木々もポスターも人間も犬も、みんなが素直に光によって安らぎを得ます。あらゆるものが馴染み合い、共生し合い、さまざまな対立関係にあったことがまるで嘘のように融合していくのです。これは妥協ではありません。
安元さんは、それらのすべてが息づいてきた時間の流れを止めたのです。それなら、時間が無くなったのでしょうか。そんなことはありません。俗の中を縫ってきた汚れた時間が光りによって聖化され、そこに永遠という得難い時間がよみがえったのです。コンダクターはそのとき神のような魔術師に昇格していました。
耳を澄ましてください。ほら、静まりかえった風景の中から音がきこえるでしょう。永遠という時間だけが産み出す純粋な音です。ここでは絵が詩になっており、文字のない詩は純粋な音を観る人の魂に届けてくれます。
私は安元さんの描く聖化された虚構にはげしく嫉妬します。健康体に奢っている人間の愚かさがつくづく恥ずかしくなります。あれもできる、これもできるという我侭は実は何一つ発見していないということです。あらゆる音を耳にしているのに、永遠が放つ純粋な音を取れずにいるじゃありませんか。
俗世の苦味にいよいよ耐え難くなったとき、私は安元さんの描く夢の世界を散策し、あの澄んだ音をききたいと思います。
(まつなが ごいち 詩人)