小金沢智(こがねざわ さとし 世田谷美術館学芸員): 「絵画の始原へ」

山田純嗣の作品を見るときいつも、私はそれをなんと呼べばよいか戸惑い、目眩すら感じてしまう。その作品は、できあがったものは平面と呼んで差し支えないものの、石膏・木・針金・粘土・樹脂などで立体をまず作り、それらを構成して写真撮影したのち、モノクロプリントした写真用印画紙の上にエッチングを刷り重ね、プレス機で刷るといったきわめて重層的な行程を経て制作されているからである。すなわち最初の時点では平面ではなく立体であり、それが写真となり、版画となる。かつ展覧会ではしばしば立体によるインスタレーションも展示され、鑑賞者は立体と版画のイメージの間を行き来することになる。
私はそのどちらを見ても、喪失感を覚えないではいられない。モノトーンの色調もその理由の一つだが、版画を見れば元々の立体のヴォリュームを、立体を見れば版画のイメージの平面性を、両極にあるものをそれぞれから想像してしまう。山田の作品はときに愛らしい見た目とは対照的に、イメージの背後にあるものがどうしてもちらつき、安穏と鑑賞することを許さない。
では、山田はなぜ立体の制作から始め、それを版画にしているのか。おそらくそこには、「絵画を絵画足らしめているものはなにか?」という問いが横たわっている。なぜなら、三次元の事物を平面化することこそ、絵画がその発生原初の段階で備えていた根源的な欲望の一つに違いないからである。山田の作品はその点で、絵画の始原を内包している。

さて、山田はかつて日本美術史上の絵画—《那智滝図》(鎌倉時代、根津美術館)や速水御舟《炎舞》(1925年、山種美術館)を典拠とした作品を制作しており、今回の個展で発表されるのも、西洋絵画に着想を得た作品群にほかならない。ヒエロニムス・ボスの《悦楽の園》(1480-1500年頃、プラド美術館)、クリュニー中世美術館所蔵の六連作のタピスリー《貴婦人と一角獣》(15世紀末)がそれである。どちらも画面を埋め尽くすかのように事物が並列的に描かれていること、そして具象と抽象、偶像と象徴といった要素が詰込まれている点に山田は関心を抱いているというが、さらに各々異なる要素にも着目している。
曰く、原作同様三連画の原寸大として完成させる予定の《悦楽の園》は、「左右対称の構成、オールオーバーな配置、無数のヌードや謎の生物を含む描画密度といった絵画のスタンダードな部分を抑えつつ、それを超越した作品」である。その超越した部分がなんなのか、圧倒的な密度に対して圧倒的な密度で挑むことで感じることができるのではないかと考え、従来の制作どおりそれらの立体から制作を始めた。また、《貴婦人と一角獣》は六枚それぞれに意味が与えられていると考えられており、山田が今回モチーフにしているのはそのうち「視覚(la Vue)」である。過去山田が制作したメトロポリタン美術館分館クロイスターズ所蔵の《囚われの一角獣》と《貴婦人と一角獣》がほぼ同時期の制作と考えられ、かつ「視覚」のユニコーンの形が《囚われの一角獣》のそれとほぼ一致すること、そしてタペスリー六連作六枚目が「我が唯一の望み」となっていることが制作上の強い動機となっているという。
先に、三次元の事物を平面化することこそ、絵画がその発生原初の段階で備えていた最も根源的な欲望であると書いた。けれども、山田が今回モチーフにしている作品に描かれているのは、実際にこの世界に存在するものばかりではない。《悦楽の園》の奇々怪々な怪物しかり、《貴婦人と一角獣》のユニコーンしかりである。そういった言わば絵画(想像)上の存在や出来事を、山田は絵画の外に連れ出し、構成し、再び絵画の世界に連れ戻す。その入り組んだ過程から、絵画を絵画足らしめているものの片鱗にふれることを願いながら。

(個展「絵画をめぐって─ À Mon Seul Désir ─」/2011日本橋高島屋 美術画廊X)