絵画とは何だろう。こんな問いは直球すぎて恥ずかしさもあるが、私は結局のところこのことについて問うている。
哲学者のM.メルロ=ポンティは『見えるものと見えないもの』の中で、「…音楽的ないし感覚的な緒理念は、まさにそれらが否定性ないし限定された不在であるが故に、われわれがそれを所有するのではなく、その緒理念がわれわれを所有するのである。ソナタを作ったり再生したりするのは、もはや演奏者ではない。彼は、自分がソナタに奉仕しているのを感じ、他の人たちは彼がソナタに奉仕しているのを感じるのであり、まさにソナタが彼を通して歌い、あるいは演奏者がそれについていくために「急いで弓を握りしめ」なければならぬほど突然ソナタが叫び声をあげるのだ。…」※と述べている。
このことは音楽だけにとどまらず、あらゆることに当てはめることができる。「ソナタ」の部分を「絵画」で言い換えるならば、「…絵画を描くのは、もはや画家ではない。彼は自分が絵画に奉仕しているのを感じ、鑑賞者は作品から彼が絵画に奉仕しているのを感じるのであり、まさに絵画が彼を通して絵画を描き…」となる。つまり、「絵画」というは、それをあらかじめ所有できるようなものではなく、「画家が絵画固有の理念に所有された」ときに目の前に「顕れる存在」ということではないだろうか。
絵画は物質にすぎないが、その本質はそれを通じて感じる不在の理念の方にある。それを顕すには、絵画に対する奉仕、つまり絶対的な信頼、愛が欠かせない。そんな気持ちで私はこの展覧会の副題を “The Pure Land”(浄土)とした。『囚われの一角獣』、『那智滝図』、『十二水図 第六段 黄河逆流』をはじめとした、私の好きな名画をもとにした作品とともに、会場に不在の理念としてのまだみぬ浄土が顕れることを願って。
※(『見えるものと見えないもの』 M.メルロ=ポンティ(著)、滝浦静雄、木田元(翻訳)みすず書房)
(個展「絵画をめぐって-The Pure Land-」/2009中京大学 Cスクエア)