小金沢智様
返信が遅くなりました。そろそろ今回の展覧会の事や自分の作品についてもう少し近づいて話していかなければなりませんね。近づこうとすれば離れてってしまう、離れざるを得ないというのは、作品に限らずどうやら僕の習性のようですね。
さて、今回を含めた「絵画をめぐって」とタイトルをつけた展覧会で発表する作品は、多くが過去の名画にモチーフを得て制作したものですが、それらの作品に限らず僕は常に絵画をめぐって制作しています。そういった考えは、そもそも絵の訓練を始めたごく初期の石膏像や人物モデルという目の前の現実のものを絵画という平面に写す事をしていたときから始まっていました。目の前のものをそっくりに平面上に描くって何?目の前のものは平面ではないじゃないかと。しかしそんな事を考えていては描けなくなってしまうので、とりあえずそこは考えない事にして描きました。でも次第に観察描写の作品の中でいい絵だと言われたり、自分でも好きだと思う作品は、そのままを写したものではないという事に気がつき始め、あれ?と思うようになったのです。例えば石膏像で言えば像と背景のキワの部分が強調されていたり、空気遠近法的にとけ込んでいたり、目の前のものをそのまま写すのとは違うものでした。そこで働く気持ちとして、目の前のものを観察しつつも無意識のうちに「絵にしよう」と思うようになっていました。そこからは意識的に「絵にする」事を繰り返すようになっていきました。
僕の高校生のときのデッサンを例にすれば、1.のブルータスの石膏デッサンはわりと素直に目の前のものを写そうとしています。それが「絵にする」事を意識し出してからは2.のデッサンの様に立体の稜線にあたる部分やキワをわざと強調したり、背景の汚れを描いたりして、演出した絵になっていきました。今見ると1.の方でも絵になっているし、2.の方は必死でいやらしいなあという感じがするのですが…。とにかく、こういった操作やノイズが現実と絵を区別するものだ、これこそ絵のエッセンスなのでは、と思うようになっていました。その疑問はその後もずっと続いていて、結局その事が絵画をめぐって考えていくときの1つの重要な要素となりました。
1. 《石膏デッサン「ブルータス」》 | 2. 《石膏デッサン「ミケランジェロ」》 |
1992年 木炭紙に木炭 | 1993年 木炭紙に木炭、鉛筆 |
その後、現実と絵の関係を考えて作品をつくっていく中で、絵のエッセンスだけを抽出したような事はできないかという考えもあり、2.のデッサンで強調した部分のように、写真に絵のエッセンスの部分だけ描き込んだ作品をつくろうとしたのです。それが前回書いた、テーブルクロスの上のカボチャの作品3.《on the table #1》でした。この作品は、写真の上に全面に横線を入れたり、カボチャのあたりに汚しを入れたり、ただそれだけの作品です。現実の部分は写真で、絵のエッセンスはエッチングで、という風に分けてつくって重ねたのです。最近の作品では、その汚し、エッセンスにあたる部分を具体的な描き込みにする事で、より見る人がそこに目を向けてもらえるようにしています。ちなみに今回出品しているゴヤの《砂に埋もれる犬》をモチーフにした4.《The Dog》と言う作品は、《on the table #1》と構図的に既視感があるという事でつくった作品でもあります。ゴヤのこの作品もほとんどが空にあたる余白で、その薄汚れたような余白があるからこそいい作品になっているように思います。
3. 《on the table #1》 1997年 | 4. 《(12-8) THE DOG》 |
先日、自分の個展会場に向かう前に、六本木でやっていた草間彌生展に寄ってきました。出品されていた草間彌生の新作ペインティングは、近くで見ると線や点はおぼつかなくヨレヨレしていました。でも僕はそのヨレヨレにとても感動してしまいました。晩年のマチスの切り絵の作品を見たときと同じ感動がありました。マチスの切り絵の作品もとても洗練されているように見えるのですが、実物を近くで見るとベタベタと切り貼りしていてとてもおぼつかない表情をしているのです。こういった部分に触れたとき、作品と現実とがぶつかり合う切り口を見たようで身震いがします。そして、本物が見られてよかったなあとしみじみ思うのです。おぼつかなさが作品にリアリティを持たせるというのは、晩年のマチスや草間だけに言える事ではなく、先の石膏デッサンにも言える事だし、作品全般に言える事だというのが僕の仮説です。例えばジャスパー・ジョーンズの国旗の作品などはいい例と言えるのではないでしょうか。抽象表現主義が絵画の中で絵画の完結を目指したが、どうしても絵画の外、何もない部分に広がりを感じさせてしまったり、画面中央でのびのびとしていたストロークが画面の四隅では窮屈さを感じさせてしまう問題をジョーンズは国旗などの記号を使う事で解決しました。しかし、ジョーンズはその記号を作品化するにあたって、国旗をそのまま提示するのではなく、筆致を残した絵肌など、味を加える事で作品化していました。
話がどんどん遠くに離れていってしまうのですが、自分の中ではそんなに離れていっているつもりはなく、近づこうと思っているので、もう少しおつき合いください。僕の初期の作品(5、6)では、モチーフを均等に並べる事によって、現実を平面化しようとしていました。抽象表現主義の作品のようにオールオーバーな画面を目指していました。それに対して名画を引用した作品のシリーズは、ジャスパー・ジョーンズの国旗の作品のような存在だと思っています。つまり、すでに記号化された作品を用いる事で、画面の外に画像の続きを想像したり、端が窮屈になったりする事がなく、作品の中のみで完結した画面をつくる事ができるという事です。
5. 《on the table #100》 1999年 | 6. 《on the table #201》 2005年 |
では僕の作品の次の段階はどうなるかという事ですが、美術史にならえば、ステラなどミニマルアートに繋がっていくことになっていくのですが、僕が主に考えている事は「絵画になる」とは、という事なので、ミニマルな方向には進まないと思っています。今回《快楽の園》をつくってみて、ボッシュの作品をなぜ選んだかかも含めて、あらためて感じた事でもあるのですが、自分の作品の制作工程における因果関係に対する態度の大切さです。因果関係とは、例えば誰々が殺人を犯したのは幼少期に虐待を受けていたからだなどのように、まず結果があって逆算的にその原因を特定するように進むものです。しかし現実は原因というのは確実なものではなく、必ずしも幼少期に虐待を受ければ殺人を犯すわけではないのです。僕の作品は版画制作などある工程をふまなければ作品が完成しないのですが、逆に言えば工程をふめばたちまち作品が完成するという技法を使っているので、あらかじめある程度の完成予想図がないと制作できません。しかし、完成予想図に向かってひたすら進むだけでは作品が完成に拘束されてしまって痩せてしまう。そのような因果関係に縛られないように、僕は制作に不確定な要素をその工程ごとに盛り込むようにしています。立体制作で言えば石膏をとろけるようにかぶせる工程、アナログ写真の現像、エッチングの腐蝕などがそれにあたります。それは先ほどの石膏デッサンにおけるエッセンスの話の様なものだと思っています。《快楽の園》に話を戻せば、《快楽の園》に描かれている世界は全体としては宗教的な意味合いを持ったものです。しかし、細部に目を凝らせば、その全体観とは離れて生き生きとしています。結果に向かって一方向に進むというような因果関係の拘束から完全に解放されています。実際僕が今回《快楽の園》に描かれているものを一つ一つ立体としてつくっていくときにもその事は実感する事ができました。細部は細部として全体のための細部ではなくそれ自体が生き生きとしているのです。
自分の作品の展開についてですが、ボッシュの《快楽の園》のおかげで、作品における因果関係のことが明らかになりつつあります。今後はこういうイメージのものに仕上げようとか決めずに、漠然とたくさんの細部を持つ作品や、何かに付随する衛星のような、あるいは散文のような作品群をつくっていけたらと思っています。その過程で「カンヴァスに一筆」もあり得るかもしれませんね。
山田純嗣