「山田純嗣×小金沢智 往復書簡<絵画をめぐって>」006

小金沢智 様

前回リンクを貼っていただいた、中村さんたちのシンポジウムの記録を拝読しましたが、興味深いものでした。世代や時代背景について知るというのは、作家や作品について理解を深めようと思うとき重要ですし、納得する部分も多いですね。ただあまり安易に納得して思考停止にしないようにしなければとも思うところです。作品は因果関係からはみ出したところがあってこそ生き生きしてくると思うのです。とは言ってもやはり周りの影響を受けつつ制作するので、自分についておそらく関係していると思う辺りの事を中心に今回は触れておきますね。

シンポジウムのメンバーの方たちとは世代的にほぼ同じですが、メンバーの方たちの方が数年年上ですので、僕が大学生になったときの上級生や院生の人たちといった雰囲気ですね。何となくシンポジウムの内容から、僕が大学1年の頃(1993年)、上級生に図書館に連れて行かれ「山田、こういうのがアートなんだよ!」と言われたときの記憶がよみがえってきました。確かそのときに見せられて印象的だったのが、洋書の雑誌『Flash Art』や、京都市立芸術大学の彫刻専攻の卒業制作の図録でした。そこにはデミアン・ハーストのキャビネットやガラスの部屋の作品、京芸の方はたぶん中原浩大さんやヤノベケンジさんが載っていたと思います。入学時点で油画専攻の先輩から絵ではないものを「これがアートだ!」と言われたわけです。そう言われてそれまで受験に向けてデッサンや油絵を描いてきた身としては、受験の絵は受験の絵と割り切ってはいましたが、あまりにそれまでやってきた事や大学の授業の内容とかけ離れていて困惑したものです。その頃の美大油絵専攻の受験の定番と言えば、石膏像の木炭デッサンと人物モデルの油彩でした。そして大学の授業も、当時の愛知芸大では裸婦を描いてばかりでした。世代的に僕はベビーブームの頃に生まれた最後の年代で、74年生まれ以降こどもは減っていっているのですが、つまり一番受験生が多い時代で、そんな事もあり受験は過酷でした。東京藝大の油画専攻でたぶん40倍前後だったと思います。60人の枠に対して受験生が2000人を軽く超えていましたから。美大受験の課題内容と倍率の高さを考えると、当時美大受験生がどういう状況だったか想像できると思います。そして大学に入って視界が開けたときに見えた世界とのギャップです。(なんだかやはり懸念したとおり、おっさんの思い出話みたいになってしまいますね…。)
とにかく、その当時絵画を中心に考えていきたいと思っていたけど、先行世代やイケてるとされる先輩が発表している作品の多くは大掛かりな発注作品のようなものが多く、また大学では相変わらず裸婦を描く。どちらにも居場所がない感じでした。そうやってモヤモヤしているうちに奈良美智さんのような具象絵画を描く作家が注目されるようになる。僕の大学の下の世代には加藤美佳や安藤正子らがいるんですが、奈良さんが注目されたおかげもあってか、彼女らのように描く事に対してとてもポジティヴな作家が出てきます。描く事にポジティヴになれれば、どんどん細密に描いていく事ができると思うのですが、それが今の具象絵画の雰囲気を作っているのではないかと思います。気づいたら僕の周りはすっかり絵画に対して抵抗感がなくなっていたという感じです。
僕がはじめて版画に取り組んだのが95年、まだ絵画に対して、特に具象絵画に対しては抵抗感が残っていた時期でした。そんな中でも絵画について考えていきたいと思っていたので、ペインティングではなく、版という手法を使うのは絵画について形式を整理しながら考えていくのにちょうど良かったのです。描く事や図像についてではなく、絵画そのものについて考えられないかと思っていました。別の視点から見れば、発注作品みたいなものの残り香の中で絵画について考えていたとも言えるでしょう。当時の僕はジグマー・ポルケやゲルハルト・リヒターが好きでした。彼らの作品の多くは描かれた図像にはあまり大きな比重はなく、主題の中心は絵画そのものなのだと感じました。僕が絵画の事についてモヤモヤしていたことを現代美術の世界の中で形にしてくれていると思い心強かったです。彼ら二人の作品は絵画でありながら「描く」ということはあまり前面に出てきません。リヒターの抽象絵画シリーズは明らかに描くストロークを見せてはいますが、それについてもメタ的なものなのだと思います。あと彼らは東ドイツと西ドイツを経験している事、特にリヒターについては、東ドイツの芸術アカデミーを卒業したあと、西ドイツでドクメンタに触れ西への移住を決意するという点でも、先ほどの日本における美大受験期の絵の訓練と、大学入学後に現代美術の洗礼を受けるという当時の経験とのシンパシーも感じるのです。

そして、前回の小金沢さんの「最初の一行目を書き出す」と僕がステイトメントに書いた事に対する部分についてなのですが、この事に関してもやはり僕の作品がペインティングではないことに関係していて、僕の場合何かを見てリアクションとして絵を描く事は苦ではないのですが、何もない白いカンヴァスを前にしてしまうと「まずカンヴァスに一筆入れてみる」とういうようにはならなくて、一筆入れるその前に写真というすでに白くないカンヴァスを用意します。そしてカンヴァスに筆を置くのではなく、最終的な支持体ではない版の方に描きます。さらにその写真を用意するために立体をつくるという…。でもその立体の前には理念としての絵画が存在しているというような感じです。そこまで用意周到にしてやっとカンヴァスに向かえるのです。
何もない状態から「まずカンヴァスに一筆入れてみる」ということと、すでにあるものから始める点では、李禹煥の《点より》《線より》の絵画のシリーズや石や鉄板による《関係項》のシリーズが今の僕の制作の原点のうちの一つではないかと思っています。やはり《点より》《線より》の描かれた時代も「絵画の死」が言われていたと思うのですが、李や中村一美や辰野登恵子らが、大きな画面で点や線やシンプルな形を描き出した。絵画が「まずカンヴァスに一筆入れてみる」ということから再開、復活したのだと思います。それ以前には李は石や鉄板やガラスが「出会う」ことから作品を始めていました。僕は写真に描写を重ねる作品を始めるきっかけとして、その「出会い」に倣い、モチーフとしてまず何かを置いてみる事から始めました。でも石や木材といったものがゴロンと存在している状態は何か違うと思ったんです。90年代後半のキーワードとして美術では「日常」ということが言われていたと思います。音楽でもMr.Childrenなどがくりかえし「等身大の…」なんて歌っていた時代です。そんなこともあって僕は白いテーブルクロスを敷いた卓上にスーパーで売っているカボチャを1つ置いて作品をつくりました。それが写真の上に版を重ねた作品の第1作目でした。
こんなような事が何層にも重なり合いながら作品になっていて、現在でもどんどん重ねていっていると言った印象です。でも一向に「カンヴァスに一筆入れてみる」と言う事には近づいていっていないようにも思えます。
今回は長くなってしまいました。

山田純嗣