山田純嗣 : 鏡としての絵画

鏡としての絵画

山田純嗣

 今回の展覧会では、「反復・反転・反映」をテーマにモネ《睡蓮》や、《日月山水図屏風》(金剛寺)、福田平八郎《漣》、ウィリアム・モリス《いちご泥棒》などの名画をモチーフにした新作を展示します。

私は、絵画について目の前の平面的な物質としてではなく、不在の理念として考察しています。今回の展覧会では、理念としての絵画が、絵画そのものから離れ、反復され、反転、反映された場所に存在するのではないかという仮説のもと、テーマを「反復・反転・反映」としました。

「反復・反転・反映」は、私の制作プロセスとも関連しています。私は近年、モチーフの立体物を作り、それを撮影した写真に銅版画を重ね、樹脂を塗って仕上げるインタリオ・オン・フォトという方法で制作をしていますが、これは一般的なペインティングとは違い、キャンバス(画面)に向かって制作しないこともあり、制作途上が、最終的な作品の見えから分断され、乖離しています。絵画の実体に触れることなく、モチーフとそれを写した写真、版という、反映、反転させたプロセスで制作しているのですが、これが最終的に絵画のように実体を持って繋がった時、それは絵画を映す鏡の様な存在になっているのではないだろうかと考えます。私の作品は、写真という現実を写したものの上に版に描いた絵画を反転し刷り重ねます。現実を写していると思われるもとの写真に写っているのは、立体として実体を持たされた絵画です。しかし、実体を持たされた絵画は、写真に写されることで再び実体を失っています。写し鏡のように何度も反映・反転を反復させられた絵画は、現実から切り取られ境界が曖昧になっていきます。

鏡となった絵画は、鏡の表面を眺める事が、同時に反映された像を眺める事になるように、現実も絵画も同じく映し出す映像となり、このように、同時には両立しない複数の存在が重ね合わさって絵画の境界が忘れ去られたとき、そこには不在の理念としての絵画があらわれるのではないか、私の作品はその試みなのです。

モネの睡蓮の面白さは、水平な睡蓮の葉で奥行きを描くのと同時に池に反射する垂直の木立の平面性を描いていることにあると考えます。壁にかけられた睡蓮の作品は、奥行きと同時に壁同様の平面性を持っています。同じ形の反復や、像の反転、反射、反映は、絵画の根源にあるのではないかと考えています。きらきらと反射しこちらに光を放つものはその実体を捉えることは難しいけれど、人々を魅了してきました。はたしてその魅力を感じるものの実体はそのもの自体なのか、反射する光なのか。不在の理念のヒントはここにもあるように思います。