設楽知昭個展 作品解説


背中合わせの絵さん Dear Back-to-Back Painting
2014,oil and pastel on panel,400×320mm

この絵の中心部はパステルで描かれています。独製のソフトパステル、シュミンケはとても柔らかくたっぷりと表面につきます。油彩画と違う絵の進み方にたいへん戸惑うのですが、面白いです。パステルでなければ、このようなタイトルも生まれなかったかもしれません。
背中合わせということについては、ギリシャ神話のアンドロギュノスのことやらローマ神話のヤヌスのことなどを引き合いに出しても良いのですが、すこし野暮な感じにもなってきます。私たちはそういうことは現に生きていて知っていることです。
「絵さん」はやや唐突かもしれません。しかし、パステルで描いていて、わずかに中心部に触れたような気がしたのです。

 


水仙の咲く人形劇場 Puppet Theatre with Narcissus
2014,oil and encaustic on canvas,803×652mm

人形浄瑠璃は人形を操る人が見えていても、襖のなど黒子が開けるのが見えたとしても、いつのまにか舞台に取り込まれて、夢中になって私は見ています。私は舞台に強く惹かれます。その舞台装置やそこに出入りする人形や人に強く惹かれます。舞台に川が流れていたとしたら、海が果てしなく広がっていたとしたら、青空があり夜が来て星も瞬く──そのような虚構に私は取り込まれて夢中になっているのです。
見るということは夢中であるとも思うのです。生きていて夢中になって見ている。

 


部屋 Room
2014, oil and encaustic on canvas, 727×910mm

絵というものを「部屋」と考えてみたらと思ったりしますが、この絵は特にそういうことから描き始めたわけではありません。
とても素敵なリゾートホテルに私は出かけていって、プライベートビーチに面した部屋の広い窓を開け放して昼寝をするのですが、見慣れない虫がやってきて、その眠りがときどき中断されるのでした。けれど、浅い眠りを幾度も重ねながら、虫が私の外や内を出入りするのをみて、私はそういうものかと納得して、さらにうたた寝を続けるのでした。

 


急な羽音の景色 Buzzing Landscape
2014,oil on canvas 910×727mm

散歩をしていて遠くの山を見ていたところ、急に耳元に虫が飛んできてびっくりしました。遠くの山に向けていた意識がいっぺんに移動(ワープ)して来たのです。この絵の始まりはそんなところからなのですが──遠くの手に触れることの出来ない山(山に触れることは出来ないのですね)と、耳元の羽音(虫)という近すぎて見ることの出来ないことが同時に在ったということが、面白かったのです。しかし、絵というものは、遠くのものも近くのものも、私はこの腕の届く距離で、画面に対し描き見ているのですから、絵というものも不思議なことです。

 


ヒトガタ Figure
2013,oil and carbon on felt and copper,162×175mm

『露光』の制作のためにスタンプを作りました。フェルトを切り抜くのですが、チャコールペンシルでフェルトにどのような形にしようかと描いてみると、これはスタンプにはならずに小さな絵になったのです。『露光』を描きながら、ときどきこの絵に絵具をつけ、このようになりました。
さて、高野山で弘法大師が座ったというフェルトを見たことがあります。弘法大師が中国から持って来たものでしょうか。弘法大師の業績というものは偉大なものですが、私はフェルトもいいと思います。

 


ふたつの夜をめぐる滝 Falls in Two Nights
2014,oil,tempera and pastel on canvas,1000×803mm

三重県名張市、奈良県と接する辺りに「赤目四十八滝」があります。渓谷にたくさんの滝があり、それらをめぐるのです。昨年の春に訪れたときは午後も遅かったので途中で引き返すことになりました。少し陽が陰り始めた頃、私たちは夜の滝を想いました。谷間の流れは折り込まれるように心に入ってきました。
昼と夜の対比にあってそれらを繋ぐように滝を描こうと始めましたが、描き進めると「ふたつの夜」に統合されました。夜を数えることで日を重ねてゆく─陽暦ではなく陰暦のほうが心に添ったのです。
今年の春、再び「赤目四十八滝」を訪ねました。斜めに切り立った岩山や登り降りする幅の狭い路や階段、そして多様な滝の有り様にめまいがするような感覚があり、私たちはふらふらと頼りなく一日中さまよったのです。その夜、私たちはこの絵の中を歩いたのかもしれないと話し合ったのでした。
*この絵に使われた青系の油絵具は手練りで作ったものです。

 


露光 Exposure
2013,oil and tempera on canvas,1167×910mm

郊外の自動車修理工場の空き地に置かれたたくさんの廃車が髑髏(しゃれこうべ)のように見えたことがありました。私はそのとき、芭蕉の「野ざらし紀行」を読みましたので、陽に曝(さら)された様子を手がかりに「野ざらし」というものになる絵を描こうと始めました。途中でフェルトを切り抜いて作った人形(ひとがた)のスタンプに絵具をつけて画面に押しつけたりしました。「印仏」と呼ばれるもので、仏像を彫ったスタンプを紙に押して祈念することと似ています。始めのころ、「死」が陽に曝される苦しみの絵になるのかと思いましたが、しだいになにか賑やかな様子になってきました。その頃、長年使っていた写真撮影用の露出計が壊れて新しく買い直し、それであちこちを計っていましたら、この絵のタイトルは「露光」にしようと思いました。そして絵が終わるころ、「露光・ロココ」とふざけていましたら、「ロココ美術」は「死」に隣接しているなと感じたのです。

 


ロボットになって街を歩いた I Got a Body of Robot and Walked around the Streets
2012,oil and encaustic on canvas,1000×803mm

この絵の裏面にはこんな落書きがあります。
ロボットニナッテ街ヲ歩イタ
人々ノ気配ハスルノニ姿ヲ見ルコトハ出来ナイ
過ゴス時間ガ違ウカラダロウカ
時代遅レノ遣リ方デ ロボットハ 光線ヲ吐ク
錆ノ味ガスル涙ガ出ル
君ニ逢イタクナル
涙ノコトヲ話シタイ
以前、ローマで買った古い絵葉書のこと──ある広場の写真なのですが、露光時間が非常に長く、人々の姿がかすんで見えないのです。しばらくその場にあった馬車でさえぼんやりと馬もわずかな影となっています。
「禁断の惑星」(Forbidden Planet:1956年アメリカ映画)ではロビーというロボットが登場します。もちろん中には人が入っています。子供のころ魅了されたロボットの原型です。。
この絵に使われたエンコスティック(蜜蝋画法)は半透明で、異なる時間や場所が二重、三重に重なる様子に適したものだったかもしれません。涙や錆が血液と混ざり固化したようにも感じます。

*この映画はシェイクスピア作「テンペスト」の宇宙版といってよいものです。ある惑星に娘アルティア(テンペストではミランダ)と棲むモービアス博士(プロスペロー)は自らが造り出した怪物(潜在意識が具現化し巨大なエネルギーとなったもの)とともに滅びるのです。

 


目のむこうの滝と新月 Falls and New Moon on an Eye
2012,oil and encaustic on canvas,727×910mm

「目のむこうの滝と新月」というタイトルは日本語です。英語では「Falls and New Moon on an Eye」としました。私は日本語で絵を描いていると思います。文化的な背景よりも言語による精神の成り立ちが圧倒的だとも思います。さて、「目のむこう」は英語にしようとすると難しい、「目のむこう」とは何か、とあらためて聞かれると正確に答えることができない、けれど「目のむこう」という絵です。「目のむこう」に「滝と新月」があるというのです。
それから、「新月」まさに月の始まりで三日月よりも細いのですが、日本から見る三日月は右側が円くなるのにこの絵では左側が円くなっています。私は南半球に出向いて日本語で絵を描いたわけではないので、おかしなことです。さかさまに見ているのでしょうか?

 


二人ノ片腕ノ私ガ手ヲ洗オウトスル We help each other. We are one-armed men.
2001,oil on polyester film,600×600mm

これはなかなか面倒な話です。
まず、私が着ていた服を使って等身大の人形を作る。
それから、洗面器を前に片腕にした人形を立たせたる(正確には上からワイヤーで吊す)。
少し離れたところに、透明のポエリエステルフィルムを透明のアクリル板に固定し立てる。
そして、フィルムに油絵具で人形と洗面器をトレースするように描く。
フィルムを裏返して、洗面器を挟んでもう一人の片腕の人形が対面するようにして、油絵具でトレースするように描く。
背景なども含め全体の色彩を調整し、仕上げる。
フィルムと同サイズのパネルを用意し表面を白く塗装し反射面とする。
パネル面と1cm程の隙間が出来るようにガラス板に密着したフィルムを外枠で固定する。

このように箱状(標本箱のような)になった半透明な絵は、表面の反射光と裏側からの光も透過して、反射光と透過光が混交した状態になります。ライトボックスは暗いところで見たほうが効果的ですが、これは明るいところで反応します。
私は脳の中で図像がどのように結ばれているのかと考えたときに──おかしなことを言いますが、頭の中に小さなギャラリーがあって──、反射光と透過光がミックスされたわずかな奥行きを持った絵を見ているのでは、と思ったりするのです。
さて、その頭の中のギャラリーの絵はもっとぐにゃぐにゃしているように思いますし、ギャラリー自体もやわらかいはずです。この絵は13年前の作品です。最近の私の絵はだいぶんぐにゃぐにゃしていると思うのです。

 


目の服 Eye’s clothes
1993,tempera,cotton,1660×1500mm

綿布で作った服を着てテンペラ絵具を掌につけ服に描くのです。
「目」と「服(私のからだ)」と「まわりの世界」、この三つの関係が、普段は「目・からだ」と「まわりの世界」であるのに対して、この作品の場合は「目」と「からだ・まわりの世界」になるのでは思います。そういう感覚です。
これは服の形をしていますが、「絵画」です。絵は私とまわりの世界の中間にあるもので、人間の代替物とも言える存在だと考えています。
しかし、それにしても、この作品は中心(視点)が、原理的には服のやや上のこちら側(つまり服を着た状態の目のところ)にあるわけで、服を脱いだときにはその原理から外れるわけですが、そうしたときに、また想うこともあるわけです。
「他者」と言うときに、私は複雑にそう想うのです。「目」の孤独というものがあり、それはすべての人に共通することなのだし、死者においてもあったのだということです。

 


鏡 Mirror
1986,oil,plaster,350×260mm

石膏刷りといって、版面に溶かした石膏を流し込み硬化後に版を外すと。石膏が硬化するときの陰圧でインクが写し取られるのです。この作品は、鏡に絵具で描いた後、石膏刷りをしたものです。
鏡には描く私が映っています。鏡に向かい油性絵具を筆や指で描きます。鏡に映る私を消し、あるいは閉じ込めるかのようです。その絵具の層が今度は石膏に移し替えられます。
鏡に映る私は左右反対の鏡像であって、私そのものではありません。絵具にその鏡像が取り込まれたとしても、私のことではないでしょう。石膏の表面に移し替えられ、それが鏡のこちら側のことになったとして、見る方は鏡側になっていて──とにかく、鏡というものはややこしいけれど、そういう鏡によって私たちは自身の姿を確認するしかしょうがないのです。
私たちは自身の姿を直接見ることはできない──そういう宿命にあって、ひょっとすると絵画は自身を直接見る方法なのではないかとも妄想するのです。

 


FRESCANTE Frescoer
1984,pigment,380×190×150mm

FRESCANTEはイタリア語でフレスコ画家を意味する言葉です。私はフレスコ壁画の制作もしましたが、壁画を制作する機会はなかなかないものです。この作品は建築空間に備わる壁画を集約して塊とする考えから出来てきました。また、色彩(顔料)を三次元的にとらえ、量をもったものとして構成するという考えもありました。型枠などを使い、顔料を膠やセンメントなどで固めました。枠から外すときに割れたり欠けたりしますが、そのままに組み立てました。まるでパステルやクレヨンで出来た積木のようなものです。色や形を立体的に考え組み立て展開するというのは、私が二十代後半に取り組んでいた課題です。その後、版的な方法を使いながら形式としては平面的な作品になってゆくのですが、私が色や形を考えるとき、頭の中ではそれらは立体的にあるのです。