斎藤裕重: 私の街角 斎藤真一 1994年

私の街角   斎藤真一 1994年

私は犬になりたい。生まれが1922年(大正11年)戌年だから犬なのである。犬のように目線を低めて、石畳の一つ一つの臭いを嗅ぎながら歩きたいのだ。
大地の立木や石ころ、土壁、電信柱、窓にも、公園のベンチにも道端の鉄柵にも、古びた橋の鉄の欄干にも、鼻をくっつけて限りなく歩きたいのだ。街はずれの孤独な一本煙突など大好きである。それぞれ特有の臭いがあり、肌ざわりがあるが、この歳になってもいい感じのものを求めまだぶらぶらと歩いている。
ざらざらした質感も好きだけど、なめらかなものもいいものだ。少し凹凸のあるもの、舌ざわりや、肌ざわりに微妙な快感のあるもの、佗びたブリキの錆のつややかになっているものなど、分別をわきまえず立ち止まってしまう。問題は、幼い時代の懐かしさの反趨なのかも知れない。
旅に出て生まれてはじめて訪ねた町なのに、一度来たことがあると恩ってしまう。あの街角を左に曲がると理髪店があり、その先に郵便局があり、小さな紅屋と言う西洋料理店があるはずだと思ったりする。きっと犬と同じぐらい目線が低かった、少年時代の望郷の念なのだろう。
遠いヨーロッパの街を歩いても同じ感慨に耽ってしまう。旅愁とも哀愁とも言い難いしみじみした郷愁のようなものだ。
一九五九年私は横浜から船でパリに留学した。その時のパリの最初の印象は、エキゾチックな異国の街だとけっして思えなかった。並んでいるオレンジ色の街灯の実に美しくて、懐かしいものとの再会の二言につきる思いだった。古ぼけた壁、こわれかけた窓、タバコ屋のおばさんも、靴屋の老人も、パン屋のおやじさんも、私が生まれた瀬戸内の町通りや露地、大正末期から昭和初年が次々延るのである。
今、ベル・エポックやアールデコを懐かしんでいるのではない。様式化された美しさを想起しているのでもない。もっと奥深いところで、自分の心や脳の中心でまだ生きている虫のような蠢きである。少年の頃、よく可愛がってくれた近所のうどん屋のおばさん、人力車夫の又さん、やさしかった祖父や祖母、みんな明治初年、それ以前の生まれの人だったけれど、パリに裸電気が灯る頃急に思い出されるのである。私の生まれた町に並んだオレンジ色のスズラン灯や、大川端にはじめて出来た映画館の灯が川面にゆれている光景と重なって、又さんのしぶい笑顔や近所のおばさんの大きな笑い声が聞こえてくるのである。
今私は冴え返りたい気持ちで、生きて来た証であるものをパリで求めている。パリでなくともよい。濃密な私だけの街角を描いている。震えるようなフオルムと質感で、心静かに望郷のポエジーを歌いたいと想いぬいている。こわれかけていた私の回転木馬が恍惚な状態で動き出すことを願っているのだ。

 遺されたアトリエで、現在も天井の梁から吊るされたままの未完成作品たち。



今回の展覧会では、父、斎藤真一のアトリエの一部を再現させて頂きました。今でも、アトリエには1993年に大阪阪急ナビオ美術館で「街角」の展覧会予定が組まれ、制作を始めた作品が制作途中のまま天井の梁から吊してあります。父の心は絵と共に生き続けていますので少しでも斎藤真一の心を思い出して頂ければ幸いです。

斎藤真一長男   斎藤裕重



「斎藤真一 初期名作と、瞽女・さすらい」展で再現されたアトリエ。