月日の経過は、アッと言う間の早さだ。
確か、十四、五年前だったと思う。銀座で、斎藤真一が欧州帰朝第一回展を行っていた。サーカス、ピエロ、占師、バイオリン弾き、手品師などといった中に、瞽女の絵が一、二点まじっていた。私はその瞽女の絵に強くひかれた。早速斎藤真一という作家に会いたいと思い、不忍画廊の荒井に「斎藤真一を知っているか」と聞いた。荒井は「斎藤さんは週に一度は絵(ジプシー、手品師など)を持って来ていますよ」という。斎藤が来たのはそれから七日目で、私と斎藤との繋がりが始まったのである。
絵の良し悪しを見るとき、作画の中を覗きこんで、その画が、智恵や学問や勉強といった頭脳技術で作られたものか、あるいは、心の捌け口として、描かずに居れぬから描いたものか、の二点で見分ける。純粋、正直、稚拙、素朴、原始といったものはみな、美の神々たちである。斎藤の作画に出会ったとき、この作家は、頭脳や智恵、画面構成、色彩の技術、配分、線描の技巧等のいっさいを画面から取り除き、いい年をして童心のままの詩情を、臆面もなく画面に漂わせていた。
その斎藤君が、久方振りに展観をやるからといって、自ら作画を携えて私の許にかけつけ、内容はどうかときかれたとき、彼の少年の様な目の輝きに呆気にとられた。
画家は、飽く迄も少年の夢の延長で、斯くあるべきと心の中に深くしまい、作画の数々を見た。瞽女の詩境から離れ、再び欧州漂白のシンプルな詩の世界に逆戻りしている。その宙返りに、初め懸念を感じたが、その一つ一つを見るうち、思わず安堵の胸をなでおろした。
「さすらいの自画像」、「或るラッパ吹きの生涯」等は、現代メカニズムの支配する世情に、よくもまあ逆行してこんなものが描けたものだと、呆れもし又、驚嘆もした。斯くて、現代画壇の渦潮の中で後の世に不滅に残る作家の一人である事の確信を、私は愈々深めたのである。
只、斎藤作画に向って言いたい事は、「現世御利益」と「来世御利益」を併せ兼ねる事は土台無理な話だという事だ。事実一路を目指す作家の道は、飽く迄も「吾往荒艸裡」の古言の如く、往けども往けども棘の荒艸の道で、緑地帯や芝生はなく、涯しなき苦難の道である。その道を歩む時、やがて歿後、来世御利益の陽の目が降り注ぐ如く、作画の数々が生き者の如くに甦り、民族大衆の中に大きくクローズアップされるのが、天の理である。
作者も、これを見る人々も、またこれを求める人々も、やがて後の世に輝く不滅の作画である事を念頭にして、見且つ求められんことを切に希うものである。
『斎藤真一作品集1949~1979』(1979年刊)より
(きむら とうすけ/当時の羽黒洞主人)