斎藤さんの絵を見ることが出来ない瞽女サンは、描かれた自分を、どう想像するのだろうか。瞽女サンの見えない目は、僕たちの見ることの出来ない世界を見ているのだろうか。
斎藤さんの絵には、その絵をみることの出来ない瞽女サンの、僕たちには見ることの出来ない世界が描かれているような気がする。だから、いつのまにか斎藤さんは「盲目の画家」だったかしらと思ってしまったりする。
僕は斎藤さんの絵ほど、音の聞こえてくる絵を知らない。
瞽女サンの、とぎすまされた聴覚が、絵になっている。
「音楽家の耳を持っている画家」斎藤さんも又、絵筆を持って津軽の雪の中を放浪する芸人なのだろうか。
そして、僕たちは斎藤さんの絵に耳を近づけて、斎藤さんがキャンバスで演奏する歌を聴くべきなのだろう。
自分の作品を聴くことが出来なくなったベートウベンのように、いつの日か斎藤さんの目がものを見ることが出来なくなったとする。
その時に描かれる瞽女サンの絵のことを想像すると胸が熱くなってくる。
鑑賞するだけの人間は、作家に対して、こんなにも無礼であっていいのだろうか。
それでも斎藤さんの絵の厳しさに較べれば甘ったるいこと。
斎藤さんの目はすでに閉じられた瞽女サンの瞼の奥にあるのだ。
『お春瞽女物語り展』(1975年)パンフレットより
(えい ろくすけ)