駒井哲郎 | Tetsuro Komai
「エチュード」
1959 シュガーアクワチント、エングレーヴィング 262×36mm
駒井哲郎(こまい てつろう 1920-1976東京日本橋生れ)
日本橋の製氷業者の子として生まれた。1933年、慶應義塾幼稚舎から普通部に進み、図画教師・仙波均平を知る。
慶應義塾普通部在学中の1935年、「日本エッチング研究所」を主宰していた西田武雄のもとに通いエッチング技法を習得した。
(西田武雄(1895-1961)は画商を営むかたわら、銅版画の普及に尽力し、雑誌『エッチング』を自費出版・発行。
少年駒井哲郎がエッチングに魅せられたのは『エッチング』誌に載っていたジャン=フランソワ・ミレーの版画を見たことがきっかけだった)
1938年、東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科に入学。1948年、第16回日本版画協会展出品。
1951年、『束の間の幻影』がサンパウロ・ビエンナーレ展受賞。1952年、ルガノ国際版画ビエンナーレ受賞。
1953年、資生堂画廊で初個展。同時期にグループ実験工房にも参加している。
1954~55年渡仏。パリの国立美術学校でビュラン技法を学ぶが、ビュランの作品をほとんど残さなかった。
「西洋の版画美術のすばらしさに圧倒されたこと、熟練を要する「ビュラン彫り」の技術習得は30歳を過ぎてからでは困難であったこと」などを述懐している。
1963年、東京藝術大学講師となり(1972年教授に就任)現在も活躍する多くの版画家・現代作家達を指導している。
1976年、舌がんのため死去。
浜口陽三 | Yozo Hamaguchi
「青いぶどう」
1956 カラーメゾチント 146×195mm
第2回現代日本美術展出品
浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909 – 2000 和歌山県生れ)
銅版画の一種であるメゾチントを復興、カラーメゾチント技法の開拓者として国際的に評価が高い。
浜口家は代々「儀兵衛」を名乗るヤマサ醤油の創業家であり、陽三は10代目浜口儀兵衛の三男.
(陽三の妻・南桂子も版画家)
東京美術学校(現・東京藝術大学)では彫刻を専攻したが、2年で退学しパリへ渡航した。
パリ滞在中の1937年頃からドライポイント(銅板に直接針で図柄を描く、銅版画技法の一種)の制作を試み、版画家への一歩を記し始めた。
1939年、日本に帰国。自由美術家協会に創立会員として参加する。
本格的に版画の制作を始めるのは、第二次世界大戦後の1950年前後、40歳頃のことであった。
1953年には再渡仏し以後主にフランスで制作を続け、1957年、サンパウロ国際版画ビエンナーレ≪版画大賞≫と、東京国際版画ビエンナーレ《国立近代美術館賞》をダブル受賞、国際的評価が高まった。
1981年、サンフランシスコに移住。
1996年、日本へ戻り、2000年12月に没するまでの数年間を祖国日本で過ごした。
長谷川潔 | Kiyoshi Hasegawa
「アネモネ」
1930 ポアントセッシュ 239×187mm
長谷川潔(はせがわ きよし、1891 – 1980、横浜生れ)は、1911年には黒田清輝から素描を、12年には岡田三郎助、藤島武二から油彩を習う。この頃から木版画を始め、1913年には文芸誌『仮面』の同人となって、表紙、口絵などを作る。1916年には、永瀬義郎、広島晃甫と共に日本版画倶楽部を結成する。1919年にはフランスへ渡る。1923年、サロン・ドトンヌに出品、24年にはメゾチント(マニエール・ノワール)の技法を復活させる。1926年にはパリで初の個展を開く。1935年には、レジオン・ドヌール勲章を受けるが、45年、敗戦でパリの監獄に1ケ月収容される。1960年に、サロン・ナショナル・デ・ボザール版画賞を受賞、66年にはフランス文化勲章、67年には勲三等を受けた。1980年に亡くなるまで、1度も帰国せずパリで客死。あらゆる版画技法を用い、また油彩も描いたが、メゾチントを復興させた功績は大きい。風景や小鳥、静物を、静かに神秘的に描き出した彼の画面は、高い評価を受けている。
――長谷川潔作品リスト――
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