中尾美穂: 池田満寿夫と版画と1960年代 (3)

■池田満寿夫とニューヨーク近代美術館のリーバーマン

1965年前後の池田満寿夫をとりまく状況は、何度自伝(*10)を読んでもドラマチックである。人柄にも興味がつきない。最初に読んだときは、1965年夏にニューヨーク近代美術館開催の個展を目前に渡米したくだりで、なぜ渡航費となる奨学金がおりるのを待てずにアメリカへ出発したのか気になった。それを機に、個展を企画した同館版画部門のW・S・リーバーマンに関する資料を調べてみた。

池田満寿夫へのW・S・リーバーマンの最初の評価は、第3回東京国際版画ビエンナーレ展の審査を務めた際の「自分の身辺のものを対象としながら表現主義的な作品を作る池田」である(*11)。もうひとり加納光於を高く評価し、南画廊と日本橋画廊が扱う他版画家にも興味を覚えたとある。実際、精力的に版画家の情報収集を行なった(*12)。つまり同館に日本の現代版画をとりあげる動きが、当時からあったということである。池田満寿夫も面会翌日に当時のパートナー富岡多恵子の代筆で手紙を出してアピールしている(*12)。彼の版画が同館のパトロンからの寄贈の形で買い上げられたことや、第4回展の審査でW・S・リーバーマンが「池田は世界的にも第一級の版画家」(*13)と発言したことからも、早い段階で収集の準備をし、個展候補に値する作家とみなしていた可能性が高い。W・S・リーバーマンによる作品評は個展のプレス・リリースおよび略歴を加えた1967-69年の国内巡回展パンフレットと少ないが、「明るいユーモアと風刺的な解釈」「彼の空想には悲哀感や優しさがあり、それにまた突然激しさがほとばしる」(*14)と紹介し、60年代前半の銅版画の魅力を広めた。ちなみに池田満寿夫が渡航を急いだ理由にカリフォルニア滞在があった(*15)。また個展の出品作は日本橋画廊を通して手配されたが、開催2ヵ月前に奨学金の決裁待ちの旨が同画廊に伝えられている(*16)。同館には館外機関と連携して版画家を発掘・サポートする目的があり、池田満寿夫にとって個展自体は小規模ながら、かなり重要なステージが与えられたのである。

もうひとつ、W・S・リーバーマンは1966年に奨学金を手配してタマリンド・リトグラフィー・ワークショップでリトグラフ制作の機会を提供したが、これで池田満寿夫に充分な公的援助を果たしたと判断したようである(*16)。実際、この間に第33回ヴェネツィア・ビエンナーレ版画部門国際大賞受賞があり、タマリンドは国際的作家を目指す挑戦の場ではなく、表現の幅を広げるステップとなった。池田満寿夫は1969年からニューヨークにも住居・スタジオを持ち、新しいパートナーの画家リラン・ジーとその母ヘレン・ジーを交え、W・S・リーバーマンとの友好的な交流を続けた(*17)

最後に再びヴィル・グローマンによる1968年の文章を引用する。60年代の飛躍と変化を新鮮な驚きとして温かく受けとめ、激励したのが同氏である。リトグラフもいち早く賞賛した。きわめて核心的な言葉だと思う。

「(ヴォルスを連想した1960年に対し)イケダがかくも根本的に変わってしまった今となっては、審査員としていったい何を語ればよいのだろう?」
「だが何にもまして衝撃的なのは、イケダがその驚くべき技術、物語をつめこんだそのビロード状のふくよかなクッションを支えにして、あらゆるものを、凡庸とわかっているものをさえも、はるかな手の届かぬ高みにまで押しあげてしまうということだ」(*18)

 

(*10) 池田満寿夫『池田満寿夫 私の調書』美術出版社、1968年
(*11) W・S・リーバーマン「国際版画展の審査に来て」『芸術新潮』1962年12月、新潮社
(*12) William S. Lieberman Papers, II.A.60.c. The Museum of Modern Art Archives, New York
(*13) ウィリアム・S・リーバーマン「審査を終って」国立近代美術館ニュース『現代の眼』同館、1964年
(*14) “the prints of Masuo Ikeda”, The Museum of Modern Art, New York, 1967
(*15)『池田満寿夫 知られざる全貌』毎日新聞社、2008年
(*16) WSL, II.A.12. MoMA Archives, New York
(*17) WSL, I.A.112. MoMA Archives, New York
(*18) ヴィル・グローマンの序文 日本橋画廊個展パンフレット、1968年