藤浪理恵子: 技法について(2)

デジタル作品についての考察

『なぜデジタルなのか?』という問いかけには、「なぜ油彩キャンバスなのか、水彩なのか」とか、私の場合で言えば「なぜフレスコなのか?とかフィムなのか?」というのとは違う意味合いが含まれている。

写真の世界においても(現在はさておき)印画紙の仕事からデジタルが普及し始めた時、デジタルに表現を移行した写真家はこの質問を受けたと言う。
写真は現実を0.1秒で切り取るカメラアイ(および指)と集中力、対象、状況に入り込み肉薄する、勇気と行動力をもって、レンズを透してフィルムに焼き付けられた『完璧な一瞬』『永遠の一瞬』が全てのように思われがちだが、これを印画紙に焼く作業によって、雲泥の差ができる。モノクロ写真に関しては、写真家独自の暗室での露光技術によって、なんとか写真家の意思が反映出来るプリントを作る事が出来てきたが、カラーではプリント作業での柔軟性がなく、概ね機械的な作業にゆだねていた現状があり、また退色変色、薬品を透す事による、紙の黄変、劣化の憂いもあった。
デジタルの普及は写真家の表現意思がプリントの段階までも完璧に反映される点で、多くの写真家がデジタルへの転向をした。
写真に限らず、制作者の意思の反映や、 行きつ戻りつの多面的な可能性の模索が、物理的な障害がなく出来ることが、デジタル作品を作る上での大きな魅力である。

私の場合デジタルでの制作は2000年から始めた。
はじめは、主に印刷媒体に向けたもので、(週刊新潮、講談社メフィストの連載アベラシオン)自分の作品に 既成の物質や印刷物のコラージュであったが、従来のコラージュの貼りました、という感じ(そこがいいところなんでしょうが)が嫌で異質のものを持って来ても融合できる、デジタルワークは体質に合ったと感じた。特にレイヤーの考え方は、フレスコ、テンペラ、フィルムに共通するもので、ただ、手で触れるか触れないかの違いであった。
そして、この手で触れる、手の動きによって作るという行為の持つ性質は、自身との一体化、無意識のカオスに没入する事を意味し、距離感の在る表現をする事が難しい、というより不可能、無理してやると嘘くささに耐えられず,結局壊してしまう、という種類の物で、私にとって 思考、感情、生理 DNAのないまぜになったカオスに沈み込むようでなければ本来の意味をなさない。反面、写真ベースのデジタルであれば、カオスに飲み込まれずに、世界の創造が出来る様に感じている。これも私にとって大切な表現の方向性だと感じている。

<コラージュ>という意識から、<モンタージュ>に移行するにつれ、全ての要素は自分自身が拾い集めるようになった。
不完全な写真を撮ることを心がける。フォーカスだけ注意して出来るだけ野放図に撮る。カメラの中に完全な作品を納めようなどいう大それた野望を駆逐し、漠然と淡々と平板に撮る。写真の持つ要素が、撮影時点で最終イメージの5−20%きらめきを保持していて欲しいと思う。
こうした不完全で平板な現実の断片だからこそ、それを練り上げて別の世界を創りだしえるのだと思う。
透明な詩情や、緩やかな愛情や、彼方からの微かな音、カオスのなかでは掻き消えてしまうそうした物を、コンピューターというシャ−レの中で ゆっくり培養する。
極細のピクセルをつまみ上げ、移し、増殖させ、少しづつ異質の物同士が融合し共存する。
自分で作業しながら見守ってもいる。
同じイメージをテンペラや版画で作っても、作って行くうちに,最初のイメージを自我と言う癌細胞が食い殺し、まったくの別物になってゆくだろうと思う。

『なぜデジタルなのか?』と問われれば、
私の体質ではそれ以外では、この世界は表現出来ないから、としか答える事しか出来ない。

2009年10月 
藤浪理恵子/Rieko Fujinami