小金沢智: 會田千夏 “portrait”シリーズを見て考えたいくつかのこと

 「肖像画」を意味する「portrait」がタイトルに付けられている會田千夏さんの作品を、見つめながらもしかしたら訝しがる人がいるかもしれません。なぜなら、それらはおよそ肖像画らしい肖像画からはかけ離れているからです。眼らしいものが描かれている。ですが、それらには鼻もなければ、耳も口もありません。輪郭線も朧げで、第一それらには身体らしいものまでもがありません。一般的に了解されている肖像画が特定の人物の似姿を表現するものだとすれば、會田さんの「portrait」は明らかにそれとは距離があるように見えます。
 會田さんの言葉に耳を傾けると、この「portrait」シリーズは、「曖昧ながらも私のごく私的な感情や記憶等などに、色、形、質感を与えて、言葉にしきれないものを具象的に表そうとしたもの」だといいます。そういう視点を導入してみると、正面から見た猫のようなシルエットの《portrait 2013.2.6》、これは會田さんの飼い猫の印象からきているようですが、しかし描かれていない猫の表情はそのまま、會田さんと動物との関係性を示唆しているかのようです。すなわち、そこに表れているのは、対象を理想化し、あたかも理解しているかのように描く「portrait」のありうべき態度ではありません。自分にとって絶対的に不透明な存在であるはずの他者を、不透明なものは不透明なままに受け入れて描くということ。さらに言えば、會田さんは自身すらも他者として捉えているのではないでしょうか。だから、ある対象から受けたイメージだけではなく、自らの感情、記憶までも、明確な形にはならずとも形にしようと試みているのではないか。會田さんの「portrait」シリーズは、そういう意味で通常の肖像画ではありませんが、確かになにかの似姿=肖像画であると言えるのではないでしょうか。
 さらに、「portrait」シリーズを見ていて私が感じるのは、そこに「季節」も大きく反映されているのではないか?ということです。繊細な描写の會田さんの作品ですが、基本的に色数は多くありませんから、私たち鑑賞者は、ほとんど無意識的に色から受ける印象を作品に反射させているように思います。たとえば、やわらかなピンクが特徴的な《portrait 2013.2.b》は萌える春を、対象的に、突き刺さるような青の描写の《portrait 2012.12.a》は凍てつく冬を。そこには、會田さんが生まれ、そして現在住まわれている札幌の季節感が反映されているのかもしれません。ここで私が思い出すのが、マニエリスムを代表するイタリアの画家ジュゼッペ・アルチンボルド(1527-1593)、その代表的な作品である四季の連作《春》《夏》《秋》《冬》(油彩・画布、1573年制作、ルーヴル美術館蔵)です。神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の依頼で作られたそれらの作品は、人の姿かたちが、当時彼の地で見られた/穫られたに違いない四季折々の植物、野菜、果物の組み合わせによってできあがっています。アルチンボルドは季節を擬人化し、それらはタイトルが表すとおり、季節の肖像画であると言えるでしょう。
 會田さんの場合は、アルチンボルドのように季節を象徴する事物が描きこまれているわけでもなければ、そもそも人の姿かたちが描かれているわけでもありません。ですから、そこから季節のにおいを嗅ぎ取るのは、會田さんと同じく日本で生まれ育っているなど、ある共通した季節体験や色に対する感覚を持った人にかぎられるかもしれません(そもそも、會田さんが季節をどこまで作品に意識的に反映されているのかはわかりません)。とはいえ、少なくとも私は會田さんの描く「portrait」シリーズから季節のにおいのようなものを嗅ぐことができ、気温のようなものを感じることができる。

 そう考えていくと、こう思うのです。
 會田千夏さんの「portrait」シリーズは、會田さんがこれまでの生活の中で触れてきたものを通して見た、世界の「似姿」=「肖像画」なのではないのかと。

小金沢智(世田谷美術館学芸員)