成田朱希: 個展「ヒステリア」に寄せて

「少女とは人間の中でもっともあからさまに性的でない存在であり、性をいちばん安全な場所にしまっている存在であるが、一切の性的なるものを、そのような少女のなかに封じこめてしまいたいという願望こそ、ルイス・キャロルが少女に惹かれる大きな動機をなしている。」
私もまた同様に、少女のなかに、もっとも性的なものともっとも純潔なものとの秘密の共存を愛している。
繊細なのに鈍感、傷つきやすいのに無防備、劣情を刺激されないではいられないのに、絶対の禁欲も同時に望む矛盾の軋轢の登場人物が、私のヒステリアであろうと思う。

次は、私のセンチメントな父(生物学的には赤の他人)、ヨシダヨシエ氏(美術評論家)の言葉である。
「成田朱希の描く少女たちの姿態は、わたしに胎内の暗示を連想させる。受動的に自由をうばわれた姿態をとらされると、動作が自発性をうしなってしまい、もとへ戻らなくなってしまう、医学用語でいうカタレプシー。極度な病的な緊張、ヒステリー、催眠状態などのとき起る、ギクシャクしたスパズムだが、胎児が子宮内のその空間条件で、からだを窮屈そうにしながら、微かにうごくさまと、それは連想的に類型し、同時に新生児のエロティシズムのように自閉的である。性生活の起源の論稿『タラッサ』で著名なハンガリーの精神分析学者サンドール・フェレンツィによれぱ、催眠と性交は発生論的相互依存の関係にあり、催眠は自己造形的(オトプラスチック)手段をとり、性交は他者造形的(アロプラスチック)ということになるが、夢が胎内の記憶にむかって溯航し、光の交錯するヒーメンのカーテンをひらくと、そこはレトロスペクティヴなステージであって、イートン・クロップの髪型をした女たちが、カクテルグラスを手にうつろなまなざしを投げている
のだ。それはタラッサの海を遠く眺めているにちがいないと、わたしはおもうのだが、それは肉体ではなく、肉体に関する意識のインパルスが、シャンデリアのようにかがやき、わたしは、成田朱希の郷愁がとってもメタフィジカルにおもわれるのだ。/ヨシダヨシエ」

引用文献:「少女コレクション序説/澁澤龍彦」

成田朱希