科学雑誌『ニュートン』2009年6月号に、驚くべき記事が載っている。「カメラで撮った被写体の模型を全自動でつくりだす」三次元複写機が、すでにあるというのである。物体の写真(二次元の情報)を入力するだけで、小型の石膏像(三次元の模作)を造形できる。工学者たちにとっては既知の技術かもしれないが、美術家たちにとっては、ゆゆしい機械の出現であろう。
二次元を三次元に、三次元を二次元に―。山田純嗣の試みも、そのような次元の転位である。転位の過程で人間の視覚から何が欠落し、そこに何が加味されるかを問う。しかも山田が目指すのは、そのような検証を報告するだけの“メタ=アート”ではない。検証を通じて作品が最も美しく成り立つ極点を、人びとの鑑賞に供しうる作品の審美的なありようを、探りだす。
山田の作品は、見かけは二次元芸術である。山田の作品と向き合う私たちは十中八九、絵画か写真かを見分けようとする。写真であれば〈これは現実の似姿だ。まったく空想の産物ではない〉と“安心”できる。しかし、はっきりと見分けるのは難しい。そのような“安心”材料を山田はそぎ落とし、むしろ視覚の不確かさを私たちに味わわせようとしているからである。
まず山田は、石膏などでオブジェを作る。空想の生物や風景である。それらを写真に撮り、印画紙に焼く。その印画紙に、凹版で規則的な柄や不定形の傷を刷る。刷られたインクは印画紙上に微細に盛り上がり、感光層内に定着されたオブジェの画像から現実味を奪い去る。裏返せば〈写真のようには見えるが、現実の似姿とは言いがたい〉という“不安”材料がつけ加わるのである。その作風を私は、かつて「月面から送信された映像のよう」と評したことがある。「月面」を、今展の副題「The Pure Land」(浄土)と読みかえてみてもよい。
今展の出品作で山田は、さらに手法を複雑化させている。古い名画や織りものに表されている生物や風景を、石膏などで造形してから前述のように制作した。オブジェのモティーフを、空想から二次元芸術に変えたのである。そこには三次元複写機の出現にも似た、ゆゆしい問題が潜んでいる。今展の出品作は、名画や織りものを“模作”したとも言いうる一方、既存の二次元芸術に表されている生物や風景を、つまりもともとの現実を、あらためて取材し“復元”したとも言いうる。
そのように惑わせつつ山田は、視覚の不確かさ―そこに美は宿るという仮説―を証そうとしている。今展に確かな“安心”を見たがる観衆の逡巡こそが、不確かさという美の最たる証しとなるはずである。
(個展「絵画をめぐって-The Pure Land-」/2009中京大学 Cスクエア)