2013年6月
池田満寿夫美術館 学芸員 中尾美穂
“時代の寵児”といわれた池田満寿夫。けれども時代の主流をめざした作家ではない。独自の路線を走りつづけた作家である。
1960年代末から1970年代に起こった国内外の多様な美術動向とも、距離を置いた。とくに映像表現の進化に対して描写の力を主張し、技法のテクニックに力を注いだ古典的な主題の新作を発表しはじめた。その作風は美術史を逆行するようにみえる。しかし当館で「モダンとは何だろう? 池田満寿夫60-70年代のファッション」展を開いたとき、彼の古典主義がファッション・モード史からみて最先端だったのを確認して納得した。依然として着眼点がユニークに思えたのだ。
70年代はリバイバル・ファッションが世界に広がった。ブランドが打ち出すハイ・ファッションはカジュアルになり、エレガントだが装飾過多、奇抜だが古着のようなドレスやコートが登場して醒めた復古趣味が流行する。「スフィンクス」(1970年)、「七つのリトグラフ」(1971年)、「七つの大罪」(1972年)、「トラベラーズ・ジョイ」(1973年)、「ヴィナス」(1975年)等の連作を中心とする70年前半の銅版画やリトグラフに、今いちど目を留めてほしい。女が世紀末のアール・ヌーボー風の服を身につけており、随所に装飾パターンや布の襞が描かれている。これが半ばになると金具や紐飾りにとって代わられる。同時期に多数制作されたフロッタージュの方は、ポルノグラフィックな写真を雑誌から転写したために最新モードとは関係ないが、写真の選択が恣意的である。選ばれているのはレースのベールやリボンや飾りのついた帽子、フリルのついたブラウスなどで、古めかしい退廃的なエロティシズムを誘う。モデルの周囲の光景も溶剤で消され、絵具で陰影や滲みを施されて生々しさを失い、物悲しい夢想の世界へと変貌する。
近年のファッションにも70年代的要素が多い。ゆったりしたライン、クラシカルなスタイル、花柄やスタッズなどが繰り返されている。池田作品を身近なものとして観るのに良いタイミングといえよう。作品名が思わせぶりなのもこの時期の特徴で、非常に暗示的だが、これも過去の解説にとらわれない新しい論点があらわれるかもしれない。
ここまでファッションについて書いてきたが、彼は単に「ファッションをひとつの素材として」使ったと明言している。最初は1961年か62年に『ヴォーグ』でコラージュを作り、アメリカでも『ヴォーグ』と『プレイボーイ』を買い込み、そのイメージで版画を作った。70年代の作品も雑誌のコラージュが原案である。要するにファッション・エステティックといわれるファッション写真の芸術性を版画に応用している。服そのものや流行には関心がなく、グラフィックの面白さや新鮮さで写真を見ていたといい、「ファッションというのは死滅するかもしれないけれど、死滅するがゆえにものすごくその時代を尖鋭的にあらわしている」という(1)。美術の中心にいては客観的に俯瞰できない、文化全体の空気感が狙いだったのだろうか。そういえば70年代の悪趣味(キッチュ)や閉塞感、コンセプチュアル・アートの広告的な要素などは、池田作品にもさりげなく取り入れられているように感じる。
ところで小説家、映画監督と肩書が増えたのも70年代である。1977年に小説「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞受賞、翌1978年に受賞作の映画化で脚本・監督をつとめた。池田満寿夫が最初の小説「ガリヴァーの遺物」を発表したのは1971年だが、小説家としてデビューしたのではない。雑誌の巻末企画によるものだった(2)。だが同作でストーリー・テラーの力量を存分に示したと思われる。愛書家が飛びつきそうな、風変わりな短編である。
中学時代からの親友だった画家の岡澤喜美雄氏は、彼がマルチ・アーティストと言われていたことについて「高校時代にその要素がすべて出揃っていた」と述べている。それほど情熱家だったという文脈での言及だが(3)、裏付けとしては、同人誌に発表した詩や文章、未発表のノートなどが思い当たる。地元バレエ団の発表会のアルバイトで美術を担当したこともあったという。デビュー後には版画集や豆本で自作の詩を発表しており、驚くにはあたらない。それよりも「挑む」のは容易だが、そのジャンルでの「新奇なもの」をつかみとり、即興的に表現する力に驚かされる。思えばファッション写真の素材をコラージュしつづけたのも、他者にはないそうした直観力を自負していたからだろう。
余談だが、芥川賞獲得を機に生活が一変したとされており、自身もそれまでは静かな生活だったと書いているが鵜呑みにできない。取材攻勢で生活を乱されるまでは、という程度の意味か。受賞年の版画制作はたしかに2点と少ないのだが、前年1976年もリトグラフ集「ミクスト・フルーツ」で鮮烈なスタイルを打ち出しており、銅版画が少ない。これは忙殺とみるよりも、緻密なメゾチント技法による古典主義からのゆるやかな離脱期とみることができる。そもそも池田満寿夫は長年ニューヨークと東京、両都市を拠点に活動しながら、制作のほかに執筆や装幀に精力を注いでいた。関係者宛の手紙をいくつかみても、息をつく暇もないほどの毎日である。それなのに時間をどう捻出したのか不思議なほど、連日、長文で親密につづられている。友人や契約画廊の証言でもみな一様に、彼が大変なサービス精神の持ち主だったという。マルチ・アーティストが代名詞になったことは、池田満寿夫が創作の才能だけでなく交渉力やプロデュース・センスなど、たぐいまれな資質に恵まれていたことも物語っている。
(1) 対談:池田満寿夫/飯田善国「女の子の目じゃなくて、アーティストの目で「ヴォーグ」をみると」『藝術新潮』1980年3月号、新潮社
(2) 『草月』1971年12月号 草月出版 *他に瀧口修造、針生一郎、武満徹ら数名の作家・評論家が幻想的な詩や短編を発表した。
(3) 岡澤喜美雄氏ゲスト・トーク、2013年5月11日、池田満寿夫美術館