イメージは我々の体験から抽出され、心に刻みつけられる。我々は体験からえたパターンで絵や地図のようなものを心に生じさせ、外界を内的なモデルにより説明し、自らの生を進行させるのである。
しかし、今、そうした経験的な人間化の作業が無効になってしまうような時代空間のなかへ我々は入りこみつつある。我々のこれまでの基準では測定されえない種類のイメージやイメージ自体のあらわれ方が様々な形であらわれてきているのだ。
例えば中世における怪獣や森や海のように、我々の周囲には目に見えない電子、原子、中間子、ヴィールス、陽子、宇宙線、走査線といった異様なものたちが幾重にも重なり蠢いている。こうしたものたちは光、色、フォルム、テクスチュア、リズム、音、動きにおいて独自の次元を持ち、これらの外界を人間の内部へとり入れるためには、これまでの人間化の作業をいったん放棄し、人間の内部自体を変えてゆかねばならないだろう。これまでにないイメージとの対応が必要とされ、認識の形式そのものを変えてゆくことが先決となる。
そもそもイメージの形成、つまり感覚のデータを一貫した体験に合体させることは、もっとも初歩的な段階での思考であり、感情であった。様々なイメージを通して我々は世界へ参画し、世界の感覚的性質や動きへ働きかけることができた。そして人はまずこうしたイメージの形成により自己の環境の意味や性格を理解するのである。
イメージは、感覚体験の流れから切りとられた明確な実体によりかたちづくられる。対象物とその周囲を視界の上で区別する境界をもとに“知覚的なイメージ”が発展してゆくのだ。
このように知覚とは、通常、多数の感覚印象をひとつのゲシュタルトに、すなわちパターン化されたヴィジョンに集めるものなのだ。感覚と知覚には決定的な違いがあり、感覚は脳から派遣されたスキャナーといえ、目は光を、耳は音を、肌は触圧をというぐあいに、五つの感覚がそれぞれの分担領域の刺激をとらえ、脳へ送る。そして脳はこれら五感から受けた情報データを解釈し、知覚するのである。
もともと、見るということに関しては、ただ肉眼で見る以上のものを脳は感じとっている。いろいろな波長の光が網膜に届くと、光はそこで暗号に変えられ、視神経→神経経路を経由し、大脳皮質の視覚領に達する。だがこの情報はかなりぼんやりとしたものであり、輪郭、縁、位置などを伝えているにすぎない。こうした情報を知覚できるのは、すでに我々が外界の物体についてある特定のイメージのモデルを心の中にもっているためである。そしてこのモデルは生まれつきのものではなく、体験を通じ得られたものなのだ。
心理学者ウィリアム・ジェームズによれば、生まれたばかりの赤子にとって外界はただ騒々しい混乱の世界でしかないという。経験がないため、感覚のデータを意味ある知覚へ組みたてることができないのだ。この状態は“純粋感覚の状態”といわれる。しかし赤子や盲目の人が一度外界を見るようになると、それ以降はこの純粋知覚は経験されず、そのかわりに視覚経験の積み重ねによるモデルを保有するようになる。この移行に我々の現在の状況を、そして新しいイメージの成りたちを解明するひとつの糸口を垣間見ることができるように思う。
おおまかにいえば脳の“視覚機械”には二つの種類があるといわれる。この二つは通常は密接に連動して働くのだが、第一の脳の主要な視覚方法(つまり焦点の定まった視覚)は我々の意識に刻みこまれ、もうひとつの周辺視覚は、無意識にすいこまれる。先者のシステムのルートは脳の進化した若い分野を通り、後頭部の脳皮質の表面にある視覚領に至る(ある意味で我々がものを見るのはこの視覚領の内部においてなのである)。そしてこの皮膚が傷を受けると、我々の視覚は失われてしまう。他方、後者のルートは、もっと奥深い、原始的な“爬虫類的な脳”へと入りこんでゆく。したがって視覚皮質がそこなわれてもこの第二のルートは残るケースが多い。
視覚皮質が傷つき視野がまったく見えなくなってしまった人の前でフラッシュを点滅させると正確にその方向を指さすことができるという、“盲視”と呼ばれる盲人の視覚機能にはこの第二のルートが作用しているといわれてきた。様々な光学的情報データは、視覚という単一の表面的な感覚にではなく、もっと根深い、共感覚的なゾーンに働きかけることができるのだ。
ここにひとつの新しいメディア・テクノロジーがある。サイエンティスト・アーティスト、ステファン・ベックが考案した“フォスフォトロン”という装置である。ベックのこのシステムは、“光視”に対する興味からひきおこされたもので、光視とは目をつぶっていても刺激を受けると明るい光が見えてくる現象のことである。同じような光や模様は、まぶたの上から目を押したり、強くこすったりしても見える。イリノイ大学の学生時代、ベックはドイツでおこなわれた、電気刺激で光視をひきおこす実験レポートに目をとめ、自分でも何人かの友人を実験台にしようと、簡単な装置をつくった。それから20年後、複雑な電気的波形をコントロールし、形成するデジタル回路を用い、電気刺激装置フォスフォトロンをつくりあげる(この名は光と電気を意味するギリシャ語に由来する)。
フォスフォトロンは、外光を入れないよう顔にぴったりつく銀色のゴーグルと、こめかみのすぐ上の浅いくぼみにとりつける電極からなっている。この電極を通じ微弱な変調電流を流すことにより、フォスフォトロンは閉じた目に、驚くほど多彩で抽象的な光の模様を見させることができるのだ。またベックは多数の電極を装着する実験でもっと鮮明な光の模様をつくりだし、その模様のなかで指向性のある動きを感じさせることにも成功している。
ティム・オノスコというジャーナリストによるその体験談が科学雑誌「オムニ」に掲載されている。
「装着がすむと、ベックはスイッチを入れ、周波数と電流の波形を調節し始めた。そのとたん、比較的明るい光の明滅が見えてきた。ややあって、今度は水平に移動するさざ波のパターンがあらわれた。そして中心のあたりに脈動する点があらわれる……」
さらにベックがこの装置にカセット・デッキをつなぐと、映像は音のリズムにつれて多彩に変化し始めたという。光は音と同調し、音と光はわかちがたいものとなる。
「眼内閃光が電気的に生み出されるのは、電流の持つ磁場が視神経にある電圧を高めるからだという説もあります。ぼくはこの現象が実際におこるのは、網膜、すなわち網膜内の桿状体、二極細胞(第一ニューロン、第二ニューロン)の部分だと思う。面白いのは、電気的に生み出された眼内閃光は実は光ではないということです。我々の脳や神経システムは網膜から生じる刺激を光としてとらえるように条件づけられているらしいのです。」
そう語るベックは、この装置に改良を加えて記号と文字をつくりだすことを検討中だといい、さらに網膜というスクリーンそのものに像や図形を描きだすことさえ考えている。目を閉じながら、様々な音や映像が次から次へと見え、聞こえ、そのなかにのみこまれてしまう。フォスフォトロンというメディア装置によって達成させられようとしているのは、目をつむりながら見るという欲望であり、“盲人が見る”という新しい位相でもある。これはある意味で無意識の視覚に訴える方法であり、“純粋感覚の状態”を浮上させるひとつのアプローチともいえるのではないだろうか。フォスフォトロンは我々のこれまでのイメージの概念をくつがえし、新しいイメージとの対応が必要なことを実感させる。メディア・テクノロジーによって我々の認識の形式が大きく変容してゆくという方も可能だろう。脳に直接、電気的情報を与えるというこのフォストロンの回路に新しいイメージ・セオリーの鍵が隠されているのかもしれない。フォスフォトロンの効果は、ここ数年の間に出現してきている新しいメディア装置に共通するものといえるだろう。例えばNHKが開発したハイヴィジョンは、通常のTVの走査線を二倍以上にした高精密画像TVだが、このTVの前では今まで我々が感じとっていた走査線の存在が完全に見えなくなり、TVのなかにあるものを映像として知覚するのではなく、実際の物そのものとして知覚するようになるほど強力な感覚効果を生じさせる。それは映像が網膜に浸透し、見る者を映像の内部世界へ引き入れてしまうような新しい体験である。
こうした画像や音像にすっぽり包み込まれているという感覚は、つくばの科学博で話題を呼んだソニーのジャンボ・トロンや富士通のコスモドームなどにおいても同様に感じられるものであり、高層ビルが連なったかのような巨大なTV画面を持つジャンボ・トロンでは圧倒的な振動のなかでメディアを現実体験として味わうことができるし、全天周スクリーンを持つ立体CGの上映装置であるコスモドーム内ではリアルな臨場感のもとで時空や空間を貫く視聴覚ショックに身をまかせることができる。
「2001年宇宙の旅」や「ブレード・ランナー」の特殊効果で有名なSFXアーチスト、ダグラス・トランブルが考案したショー・スキャン・システムはこうした効果をより精密に理論化したメディア装置といえるだろう。
これは撮影・映写速度を高速にし(毎秒60コマ)、大型フィルム(70ミリ)を採用した6チャンネル・サウンド方式の映像空間であり、人間の中枢神経系に視覚情報の奔流を浴びせかけ、肉体的にも、精神的にもリアルな体験を生じさせることがもくろまれている。
こうしたシステムの開発のため、トランブルをはじめとする研究者たちは実験協力者に各種の計測装置をとりつけ、心搏数、呼吸数、発汗量などを測り、筋電図、脳波のチャートを調べた。そしてこの人間モルモットたちに様々なフレーム密度で撮影した映像を見せ、色々なシーンに対する肉体的反応を調べると、秒あたりのフレーム数が60コマを超えれば各計測装置のメーターが大きくはねあがることが判明した。毎秒60コマの新しい視覚的現実に、人々は異様に興奮したのである。
新しいメディア・テクノロジーにはある種の共通する、人間の感覚への影響が見られる。まずそれは大きく時間軸を混乱させる。今まであった確かな時間軸がくずれ、過去、現在、未来がバラバラになった、あるいは同時に混在する時空間を現出させる。さらにそれらのメディアは現実と非現実の間の境界をしだいに見えなくする。つまりハイ・テクノロジーの生む現実が、我々の今いるこの現実とあまり変わらないものになろうとしているのだ。新しいメディア・テクノロジーは単に音や映像を記録し、伝達するばかりではなく、人間をその内部へひきずりこむことができるわけだから、そこがもうひとつの現実となってしまうわけである。メディアが全感覚的に作用し、新しい現実を構成しつつある。こうしたことは“疑似現実”などという言葉でつかまえられるものではなく、まさに現実そのものなのである。いわば“メディアと現実”という二項対立の設定自体が無効と化している。
もっといえば、メディア・テクノロジーが人間の意識を複合的なシステムでコントロールし、つくり直しているといっていいのかもしれない。我々自身の時空意識や現実感覚がメディア・テクノロジーによって次々と生み出され、そこにおいて現実とは非物質的であり、今までの我々の認識の枠組そのものが役立たなくなっている。そして我々はそうした世界を現実化し続けるのだ。
自ら監督した映画「ブレイン・ストーム」のなかで、ダグラス・トランブルが生み出した<他人の記憶や肉体的感情を追体験できる感覚伝達装置>こそ、こうした新しいメディア・テクノロジーが抱えている衝動の究極的なものといえるだろう。これは、ある脳科学者が意識下の記憶、欲望などによる幻覚を映像的に体験しうるカプセルを考案し、それによって死の体験や性の体験、胎児の記憶やドラックの感覚さえも味わうことができるというのだが、そこには映像とは感覚の一領域に訴えるものではなく、全感覚的な体験であり、精神の旅の入口であらねばならないとするトランブルの考えが凝縮されている。
「次の世代には自分で考えた場面を体験できるようになるでしょう。三次元投影装置が十分に完成され、我々の感覚はホログラムの像を“実在”するものと感じるようになります。この体験には肉体的な危険性やケガはともないません。地球が重力でものをひきつけるように、人工体験は我々の心を視覚の世界へ確実に引きこむでしょう」
プログラミングの経験のない人でもコンピュータの前に座ってアドベンチャー・ゲームをつくりだせるソフトウェア・プログラムを最近売り出し、話題を呼んでいるレクスト・サイエンス社の代表チャールズ・フィリップ・レクストは、高性能の人工知能のソフトウェアと三次元ホログラムの組みあわせにより完全な実在感を味わえる“虚像実在化マシーン”が2000年までには生まれているだろうと予測する。それが本当に実現でいるかどうかはともあれ、そうした言葉が奇妙な実在感をもってせまってくる時代のなかに、我々の意識がはまりこんでいるということは否定できないだろう。そうした精神状況を反映するかのように、外部の情報媒体ではなく、自らの有機的な身体知覚と直結し、我々の脳を中枢とする感覚把握の複雑なプロセスそのものへ介入する“直結総合メディア”が様々な形であらわれ始めている。フォスフォトロンもそのひとつだが、その原点はやはりホロフォニクスといえるだろう。
アルゼンチン系のイタリア人でロンドンを中心に活躍する神経生理学者ヒューゴ・ズッカレリによって80年代初頭に開発されたホロフォニクスは、立体音響と知覚の生理的メカニズムを利用した音像シミュレーションの画期的なシステムであり、ズッカレリはロンドンでターボ・スピーカーの生みの親であるトニー・アンドリュースや作曲家のヴァンゲリスといった多くの技術者・音楽家の協力を受けてこのシステムを完成させ、欧米で一大ホロフォニクス・ブームを起こしている。
ホロフォニクスは通常のバイノーラル録音による立体再生音ではなく、そこでは単なる音の現実感を超えて様々な感覚の混合が促され、炎の熱感や音の振動に伴う空気の震えさえもが録音されてしまう。そこで聞く音は現実の音よりはるかに鮮明であり、強烈なヴィジュアル・イメージとともにたちあがってくる。音が外から聞こえてくるというより脳の内部から響いてくるという感じなのだ。
ホロフォニクスは現在ではさらに成功になっているらしく、最近ズッカレリと会見した武邑光裕氏によれば「ズッカレリが“リンゴ”と呼ぶダミーヘッドに向ってマッチ箱をふりながら、空間に数字や文字を書くと、それがぼくのヘッドフォンからの音だけを頼りに認識できる」ほどだったという。通常のバイノーラル録音は左右方向の音像定位しかできないが、このホロフォニクスは上下方向の音像定位も可能になっている。これはズッカレリの専門である神経生理学から導きだされた方法であり、脳は自律的な振動装置を孕み、外界の音と人間自身が発するリファレンス・トーン(参照音)との干渉を解読し、音の空間位置を把握しているという理論に立脚している。外界の音と参照音の干渉が脳に奥行きや揺れやしめりけといった空間的な情報を与えるというのだ。ホロフォニクスはこの自然の相互干渉作用を再現可能なため、脳は現実に音が発せられている時と同様な方法で音像を認識する。それゆえ合成した参照音とともに外界の音を録音すれば、脳はその情報を解読し、周囲の状況を精密に再生できる。いや、もっといえばその干渉パターンを明確な意図において再構築すれば、まったく新しい音の空間や聴くことの位相も生みだすことができるだろう。
ホロフォニクスは、その音像体験が意識の強力な変化を促し、知覚全領域におよぶシミュレーションであるというこれまでのメディアにない特性を持っている。例えばこのシステム感覚器官そのものにかつてない知覚領域とイメージの多層な生成の場をもたらすことができるため、これを利用して聴覚障害者に音を感知させたり、盲人にヴィジュアル・イメージを喚起させるということも研究されているという。脳の奥底から音が聞こえてきて、目をつむりながらイメージが浮んでくる…これは音の視覚化ということができるかもしれない。というよりホロフォニクスは多重感覚的であり、聴覚そのもの以上に他の感覚をひきずりだしてしまうのだ。
ホロフォニクスの効果は、「イルカは音を聴くというより、むしろ音を見ているんですよ」という脳科学者ジョン・リリーの言葉を思い起こさせるだろう。イルカは視覚による直観的認識に相当するような音響の感知能力を持つといわれる。彼らは非常に緻密なパルス音(波動)を出し、このパルス音は水中を伝わり、的になった対象によって反射されてまいもどってくる。彼らはその音を聞いて解釈をほどこし、心的なイメージ、地図、観点などをつくりあげることでコミュニケーションをおこなうのだ。
「生まれつき視力のない人はイルカに似たような音響能力とテクニックをもちいることができるでしょう」というリリーの言葉も興味深い。視覚に縛られてきた我々の認知概念をくつがえすような方向性がそこには秘められているかのようだ。
人間の、見るということを解体し続けてきたビデオ・アーチスト、ビル・ビオラもまたイルカの知覚様式に注目している一人だ。最新作で、彼は鳥の眼、魚の眼、カメラの眼、観光客の眼といった様々な眼の位相を交錯させ、古代から現代までにいたる「見る」という行為の時間の流れを凝縮させてみせたが、その果てに彼は、見るという行為の新しい概念はイルカが発信音を出し、その反射によって頭のなかで物体を見るということにあるのではないかという結論に達している。ビオラの考えも“直接結合メディア”への欲望と合致するものといえるだろう。パルスが見ることの中心に置かれ、振動がイメージをつくりかえてゆく。
宇宙の出来事は電磁波の振動をひきおこし、それが宇宙空間を横切って、同じ振動数を持つ地球のある部分と共鳴し、同等の振動を生んであるフォルムをかたちづくる。このことから、こうした仮説が成り立つかもしれない。すべての形態はそれ自身の特性を持ち、我々が身の周りに見る形態は環境の振動数の組みあわせの結果なのだと。
18世紀のドイツの物理学者エルンスト・グラードニは、振動のパターンを目に見えるものにするある方法を発見した。彼はバイオリンの上に薄い金属板を張りつけ、その上に砂をばらまき、弦をこすると砂が美しいパターンになることを見つけたのである。“グラードニの図形”と呼ばれるこの実験は、波動の作用を実証するため物理学で広く用いられてきたが、それらは異なった振動数は異なった形態のパターンをつくりだすことをも示している。また違う密度の粉を使ったり、広い振動数領域をもつ旋律をかなでたりして、ひとつのパターンを様々な形態に変えることも可能である。
こうした物質に対する振動の影響は“サイマティックス”と呼ばれ、この基本原理は、環境の圧力は波動のパターンをになわされていて、物質は波動の振動数に依存する形態をとり、これらの圧力に反応するということである。
音という振動も同様の現象を起こす。スイスのハンス・イエニイ博士は“グラードニの図形”をさらに改善し、トノスコープという装置をつくり、これによって音を不活性物質中の目に見える三次元パターンに変えようとしてきた。様々な周波数の音波を与えられた物質(液体、固体)は、思いがけない、いろいろな形を出現させる。例えば規則的な振動を与えられることにより、シャボン膜は交互にふくらんだり平らになったりし、音が高温になればなるほど、かたちは変わり、シャボン膜上にあらわれるヒダも数を増し、複雑になる。また金属プレート上の水滴は、規則正しく与えられる特定の周波数の振動によって、三角形から四角形へ、さらに星形から五角形、六角形へと形を変えてゆく。
そしてイエニイが、振動によって変幻し続ける液状のビスコースの“波と渦の彫刻”を指して、「つかの間保たれるこれらの現象も“生き物”なのだ」と語る時、我々はこの問いかけが宇宙をかたちづくっている様々な形と振動(音や光)の謎に満ちた関係へと向けられていることに気づく。この言葉には振動と存在そのものの関係まで含まれているのだ。ものやいのちが存在することと見えない振動の世界の綾がそこには浮びあがってくる。
ちなみにイエニイの2冊の著作『キュマディークⅠ, Ⅱ』はかのルドルフ・シュタイナーの憶い出に捧げられている。この20世紀最大の神秘学者とイエニイは14歳の時に出会っているという。シュナイナーもまた熱力学の学徒から出発し、壮大な霊的宇宙進化論を構築したが、その中心にはパルス(振動)の問題があったことに注意を向けねばならないだろう。
これまでたどってきたことから、我々が今、新しい図像観の発生の場にたちあわされていることがわかるはずだ。というより我々のこれまでの図像観が、非常に限定された視点であったということをまず理解しなければならないのかもしれない。ちょうど遺伝子が我々の身体の構造と成長を決定し、整えるように、イメージが我々の思考と感情を決定し、整えるのだとすれば、こうした新しいイメージのあらわれによって、我々の肉体精神自体が大きく変えられているといえる。
これまでは身体が感覚に訴える印象の流れを切りとり、世界を個々の実体に区分けし、その世界を関連性あるひとつの全体に統一してきた。身体が位置、大小、方向、密度といった情報を判断し、基準を決定する。何度も比較を重ねながら、この基準が決定する空間に、ここに存在する物像の世界をつくりあげる。物の世界がかたちづくられるのである。そして身体は自己を中心に置き、自己は他のいっさいを観察し、測定し、理解する主体となる。
物として見ることは高度に発達した知覚方式である。これに対し、それに先立つ、より初歩的な方式があげられるはずだ。例えば未開人や赤子は、主体と客体の間に特に明確な区別をおかない。主体と客体、知覚と感情、思考と行為などがたえず混濁する。彼らは世界を整然とした物に分類するのではなく、むしろその動きを動的な関係にむすびつけることによって環境にとけこんでしまう。
これまでこのような方式はネガティブな、退化した方式としてみなされ続けてきた。しかし、新しい時代環境は、そうした方式をこそ必要としているかのように見える。自己を固定した硬い型としてとらえるのではなく、振動する流動的な場としてとらえることが求められている。
物として見ることは日常生活の中で環境を秩序づけ整理するためには好都合だが、新しい時代のように空間的にも、時間的にもスケールがどんどん広がってゆくと、それはまったく役立たなくなってしまう。巨大なものや微細なもの、速度や波動、光や次元の歪みなどをとらえられなくなる。我々のこれまでの身体ではとらえることのできないものが我々の世界の根本をかたちづくってゆこうとしているのだ。
我々が自然や宇宙のなかに見いだす構造は決して孤立した物ではなく、それらは空間的にも、時間的にも他の構造からあらわれ、再び他の構造へ消えてゆくものである。水蒸気は雪片となり、やがて雨の雫に変わる。また受精卵から始まり、胎児、幼児、成人と生育することもある。構造のパターンは動的なパターンでもある。
我々は自然界のパターンをその周囲から切りとられた単一の存在とみるが、それは一時的な境界線を見ているにすぎない。境界線は、パターンがたどってきたプロセスの過去と未来を分離し、接合しているだけである。パターンはいわば行為と行為の接点である。こうした世界を見るためには、我々はこれまでの知覚方式を捨て、新しくて古い知覚方式を手に入れなければならない。物よりもそれらの関連性や流動性を見る必要がある。ものの相互関係を明らかにし、様々な現象を交差させて考えてゆくことが求められている。そしてそれは実は、ホロフォニクスやフォスフォトロンといった新しいメディア・テクノロジーが可能にする意識の新しい位相とも重なるものなのだ。それらは固定的な物の体系を崩し、空間的、時間的なパターンの体系を生んで、新しいヴィジョンの到来を告げようとしている。
門坂流は、まさにそうした新しいイメージの方向性を内包した平面世界を模索しているように思える。旋回する心理的な線となって流れ、耳や目に入ってきて巨大な輪のなかへ人を浸らせてしまうイメージのつらなり、こうした微細な波動としてのイメージの渦は、我々のこの世界の堅固な状態を、そこから生ずるあらゆる結果を、その構造や量を、その肉体や精神をなしくずしにし、非物質化し、新しくよみがえらせてくれるはずである。石や岩の上を、泡立ちながら流れるせせらぎのなかで無数の相と渦ができあがり、これらがすべて宇宙に開かれた感光器となるように、新しいイメージの旅に出るために我々は自らのセンサーを少しずつつくり変えてゆかなければならないことを、彼の流紋は静かに示してくれているように思う。
(「門坂流作品集 風力の学派」(ぎょうせい刊)より)