會田千夏: 個展“portrait”について

portraitという作品は、曖昧ながらも私のごく私的な感情や記憶などに、色、形、質感を与えて、言葉にしきれないものを具象的に表そうとしたものです。一つ一つの説明とは違った別の感じ方、見え方が、作品を見てくださった皆様の中に生じることはとても自然なことで、むしろ、その方が私にとってはうれしいことです。作品を読み取ることも一つの絵の見方かもしれませんが、どうか、自由な見方、感じ方で、名前の付けられていないこれらの肖像画の登場人物たちに、皆様なりの名前を付けていただけたら、とても嬉しく思います。 會田千夏


紫には女性的なイメージが感じられます。優しいようでいて、生き抜くための厳しさや闇のような部分を柔らかい霧で隠しているような、または霧にして太陽の光が当たったときに蒸発させて晴れやかなものにまたリセットさせていつか目覚めるような…。そんな可能性を持ったもの。

 


緑には生き物を生かす力、癒す力があるように思います。緑は全てが生きる方向へとサイクルが回っています。たとえ枯れて茶色や灰色になっても、自らを養分にしながらまた新しい芽をだす強さを持っています。その姿から活力を与えられますが、かれらの笑顔を信用し過ぎると人間でいることの意味を見失いかねない気分に陥る危険を感じます。笑顔が曲がっているのは、そのような畏れのイメージからです。

 


このグループは、ごく最近の私の精神的イメージからくるものだと感じています。北海道の冬は雪が降り積もり、外の色彩が極端に少なくなります。そんな時期、色をどこかで渇望していたのかもしれませんし、または、これから始まる新しい季節や生活に向けての前向きな気持ち、また無垢なものへと帰る懐かしい気持ちなどが、子供の頃持っていたぬいぐるみのような形を借りて出てきたイメージだと感じています。

 


生き物のプラスのエネルギーを緑などで表現する傾向が私にはあるようで、これはあきらかに自宅にいる猫たちに対するイメージからきていると思います。飼い猫は自然動物ではありませんが、かれらの行動や目の中には明らかに野生的なものが残っていて、時折、私たち人間との隔たり、一線を越えられない彼らの誇りのようなものをふと感じます。かれらが何を考えているのか、私たちに対して何を感じているのか、彼らに対しての疑問や尊敬の気持ちをこれからも何らかの形で表現に出てくるのではと感じています。

 


一昨年あたりから、線条の筆致を絵に入れたくなって、その最初の頃のものです。線には、流れや集結の仕方によって様々なイメージが連想されると思います。植物の葉や根に見えたり、人間の毛髪に見えたり。この絵を描いていくうちに線が重なり、奥に潜んでいるだろう誰かが、どんどん線で覆われていきました。きっとこの線を掻き分けた向こうに、何かの視線と目が合うような気配を私は感じています。

 


まだ、私の中でも消化しきれていない、把握しきれていない者たちの仲間です。加筆を加え始めた時期が雪で閉ざされた冬だったせいもあるのか、札幌の雪降る日の夜空のイメージと重なります。私にとって描くこととは、「わからないから描いてみる」という、何かを探す手段だと思っています。描くことによって分からなかったことを理解できるときもあるし、「わからない」ということを「やっぱりわからないんだ」と自覚することもあります。このグループの者たちは、まだ私の中でもっともっと深いところにいて、まだまだ引き出さなければならない記憶や気配なのだと思っています。

 


このグループは、私の中でもごく生命力の強いものたちの仲間だと感じています。左の中型の作品を描くもとになったイメージは、自宅にいる9匹のうち8匹の黒猫家族の野性味のあるやんちゃな姿と、群れて一塊になった時に私を見る彼らの目の強さや怪しさ、言い表しようのない畏れです。もともとペットではない彼らは、絶対に私に言いたいことがあるはずだと感じています。彼らには彼らにしかわからないルールがあり、世界や誇りも持っていて、それは人間とは共有でき得ないという強い意志みたいなもののかっこよさを肖像画にしてみたかったのです。 中央右寄りの作品は、自然という響きの優しいベールの後ろに潜んでいる森の番人のような目を表現してみたくて描いてみました。山や森の中に入るとき、ここより先には踏み込むなという視線を感じることがありました。何種類もの蔓が絡まった木々や、とげとげの新芽が生い茂っている場所には、そのような原始の意思みたいなものの気配を感じます。右端の作品は、明らかに私の中の黒い生命力なのではないかと感じています。死のエネルギーにもなれば生のエネルギーにもなり得ますが、他人には見られたくないものの一つだと思っています。この絵は描いたあと、他人に見せてよいものかどうか迷いがありました。このような表現は、モノクロに近い色彩で描くときに出てきやすいイメージで、おそらくこれからも時々顔を覗かせるのではないかと思います。人間だれしもが隠し持っている108つの欲望のようなものかもしれません。

 


水色を好んで使うときは、思い起こしてみると、精神的に冷静になりたいとき、または平穏なときが多いかもしれません。この水色のグループのものたちは、できるだけ激しい主張を避けて、物事を静観している、言いたいことがあったとしても自分から言葉を発することはない…そんな性格を持っている気がしています。左から二番目の中央に穴があるものは、何を考えているのかが見えない洞穴の暗闇のような静けさ、不安げな気配を感じながら描いたことを思い出しました。

 

この肖像は、中でも一番イメージがはっきりとしているものかもしれません。北海道には、生まれ変わるための季節・冬があります。風や寒さは生命を吸い取って行ってしまう危険な面を持っていますが、雪は降り積もることによって布団のように土を守り、春に多くの命が生まれ変わる手助けをしています。優しさと厳しさの二つの性格を持つ冬というもののイメージを、私たちの触れる余地のある自然とはまた違う次元にある神秘性を持たせるために、瞳に金色を差して表現してみようと思いました。