中尾美穂: 池田満寿夫と版画と1960年代 (2)

■池田満寿夫と色彩銅版画、グローマン

ところで池田満寿夫の色彩銅版画がなぜ注目されたのか。カンディンスキーやクレーの研究家である高名な評論家ヴィル・グローマン博士の最初の激賞は新聞記事の「日本の能面に通じる簡潔な美」という表現を頼るほかないが、それだけではグローマンの意図するところがつかみきれないだろう。それよりも、

「私は1960年の池田のエッチングをみたとき、彼は全然知らなかった夭折の作家ヴォルスを思いだした。この両者は自由に線が走り、しかも同時に線がたのしみながら動いている所謂線による表現力に恵まれた才能という点で結びつく」(*7)

という序文の方が明瞭である。不忍画廊でこのたび展示されている文部大臣賞の受賞作を観たが、やはり自由奔放で力強く、どちらかといえば刻線の勢いに任せているようなところがあった。むしろ彩色の方が詩情を漂わせて控えめに配され、抑制が効いている。白黒の版画には静謐で冷やかな魅力があるが、池田満寿夫の銅版画には躍動感や温かみがあり、それは色彩の有無にかぎらない。グローマンが注目したのも表現の豊かさ、それでいて無駄のない色彩や画面構成だったと推測する。だからこそ、のちの鮮烈な作風の変化――ジャケット、靴、虫や鳥や人物のようなもの、文字などが落書き風に描きこまれた賑やかな画面、西欧的なモチーフ、リトグラフでの新しいテクニックなど――をも高く評価したことに説明がつく。

1963年のパンフレットには、瀧口修造の「朝食のときから始まる池田満寿夫についての言葉」も掲載された。モダニスム詩を発表するかたわら、シュルレアリスムの紹介や「実験工房」の結成に関わるなど戦後美術を牽引した瀧口修造だが、ちょうど自筆年譜の「この頃から新聞雑誌の評論をつとめて避けるようになり、むしろ偶々個人的に送る言葉、または稀れに書く個展への序文のような断章が結果として意外な比重をしめることになる」年であり、池田満寿夫がその早い例となった。また翌1964年の同画廊個展には、生涯の畏友となる仏文学者の澁澤龍彦が寄稿した。少し引用すると、

「天使も、貴婦人も、アダムも、イブも、じつは彼の恋人もしくは女友達、彼の友人もしくは隣人である。彼の世界は完全にプライヴェートであり、日常性がそのままドラマと化した世界である、とも言えようか」
「薔薇色を表現することは、暗さを表現することよりもむずかしいのである。そして、さらに言えば、明るいイメージのなかから追ってくる不安の予感こそ、最も真実の不安に近いのである」(*8)

というようにモチーフが羅列されており、まるで澁澤龍彦の美意識に池田満寿夫の方が感応していたようにみえる。実際、池田満寿夫は瀧口修造や澁澤龍彦が認めた作家を羨み、自身への評価も強く望んだ。インタビューに「……瀧口修造ひとりに褒められれば、すべてに褒められたと同じくらいの価値があったのね」(*9)と語ったようにである。たとえば天使は以前から作品に現れたが、1962年の《出を待つ天使》など、クレーからの連想というよりも、澁澤龍彦への懸命なアピールにみえてならない。だから畏友諸氏の序文を得た個展というのが、それだけでも非常に晴れがましいものであったと思う。もうひとつ、作品の傾向について、グローマンも澁澤龍彦も「不安」を挙げていることに注目したい。形あるもの、日常的なものが登場して楽しげな物語が生まれる一方、背景のない空間にさまざまなものが即興的に配置されるさまが、覚めない夢の非現実世界を連想させる。さらに1965年あたりからはポップ・アートのイメージがとりいれられ、不可解なほどの明るさや軽さやユーモアをともない、不安や妄想もいっそう肥大し、意味深長な作品へ発展していく。

(*7) ヴィル・グローマン「池田満寿夫」日本橋画廊個展パンフレット、1963年
(*8) 渋沢竜彦「日常性のドラマ《池田満寿夫の個展に寄せて》」日本橋画廊個展パンフレット、1964年 *表記は原文どおり
(*9) 「次元が違う」『澁澤龍彦全集20』所収 河出書房新社、1994年