中尾美穂: 池田満寿夫と版画と1960年代 (1)

2013年2月
池田満寿夫美術館学芸員 中尾美穂

池田満寿夫の60年代は輝かしい。だがその輝かしさを自分がつたない言葉で表すのは難しい。それほどに名文であふれている。久保貞次郎、瀧口修造、ヴィル・グローマン、澁澤龍彦(*1)、瀬木慎一、針生一郎――。初期の個展パンフレットや新聞記事数紙だけでも、そうそうたる執筆者の名が並ぶ。そのなかで久保貞次郎とヴィル・グローマンの両氏は、東京国際版画ビエンナーレ展で池田満寿夫を強く推した審査員という共通点がある。この国際展が池田満寿夫を国内の代表的な現代版画家に位置づけた。そこで両氏の評を軸に、60年代をふりかえってみようと思う。もうひとり重要な審査員がウィリアム・S・リーバーマンであるが、これまで彼との直接の関わりはあまり語られなかった。ここに若干の資料があるので後半で紹介したい。

(*1) 彦は正しくは旧字、以下同様

■池田満寿夫のデビューと久保貞次郎、そして瑛九

作家論に受賞歴がついてまわるのは池田満寿夫の特徴かもしれない。恵まれたスタート、スター性のあるその後の活躍をみると触れざるをえない。第1回東京国際版画ビエンナーレ展(1957年)公募部門入選、第2回展(1960年)文部大臣賞、第3回展(1962年)東京都知事賞、第4回展(1964年)で国内出品作家最高位の国立近代美術館賞と続く。他国の国際展でも次々と受賞。その快挙を強く印象づけたのは、最初の文部大臣賞を国際審査の委員長ヴィル・グローマンの推挙で得た逸話である。池田満寿夫はこれを「幸運なデビュー」(*2)と語った。本当にそうだったのだろうか。妥当性について考え始めたのは久保貞次郎の文章を読んでからである。

その文章は不忍画廊における初の銅版画個展パンフレットにある。最後の「彼はこの広い地上にかくされた魂の宝石を発掘せんと書きつづける、今日の一人の画家である」(*3)だ。久保貞次郎は多くの足跡を残した美術評論家で、とりわけ児童絵画教育や創造美育運動の普及につとめ、小コレクターの会を設立して頒布会を開いて新進の画家たちに制作の機会を与えた。自らがコレクターで強力なパトロンだった。池田もその支援を受けたひとりであったから、この一文は不遇の時代を知る久保貞次郎ならではの作家像といえよう。1950年代、池田満寿夫は迷いや絶望や希望の入り混じった日々を過ごした。生活も困窮をきわめた。もちろん堀内康司、靉嘔、真鍋博と結成したグループ「実在者」やのちの活動でも、社会批判や内面の鬱屈を油彩で表現しようと試み、美術雑誌の展評でわずかながら言及された。だが彼の才能は版画によって新鮮な印象を周囲に与えたからこそ、花開いた。注目すべきは活路を見いだすのが本人ではないことだ。後年、浜田知明の連作「初年兵哀歌(歩哨)」を観たときのインパクトがきっかけ(*4)と述べているが、道を示したのは画家瑛九である。

久保貞次郎とともに創造美育運動や小コレクターの会など一連の運動を進めていた瑛九は、1956年に銅版画を始めたばかりの池田満寿夫にすぐ私家本の画集を作るよう勧め、久保貞次郎に見せた。彼らが熱心な頒布を行なったのはいうまでもない。瑛九は初の画集を「大へん新鮮で美しく珍しいもの」「産バ役の僕は似顔エをこれにかえさせるために、ずいぶん骨折りました」(*5)と記している。「似顔エ」とは、池田満寿夫が生活のため似顔絵描きをしていたことを指す。はじめは線質の柔らかいエッチングが主だった。しかし腐食の偶然性に左右されて思い通りにいかず、閉塞感を抱いていた。瑛九の交遊圏にいた頃だから他の版画技法も試したが、突破口は銅板に直彫するドライポイントだった。これもまた、即興的な面白さを生かすため(*6)という瑛九の助言による。こうしてみると、デビューは予期せぬ運にも恵まれたが、版画家池田満寿夫の資質を引きだした瑛九には当然である。むしろ瑛九の判断の確かさ、それに池田満寿夫が未知のものを掌中にする勘の鋭さの方が驚きである。瑛九は1960年に亡くなるが、生涯、先駆的な孤高の精神を持っていた。一方、池田満寿夫は方向性もインスピレーションも即興的なのが魅力であったし、オリジナリティと時流を同時につかもうとするところに分岐点があったのだろう。それでも池田満寿夫の作品にひそむ瑛九の精神を無視することはできない。瑛九のいう「新鮮で」「珍しいもの」が色彩ではなく、才能の原石を指していたと思うからである。

(*2) 池田満寿夫『池田満寿夫 私の調書』美術出版社、1968年
(*3) 久保貞次郎「池田満寿夫の銅版画」不忍画廊個展パンフレット、1961年
(*4) 池田満寿夫「変貌のイコロジー」『版画芸術』1988年7月、阿部出版
(*5) 『瑛九への手紙』瑛九美術館(木水クニオ)、2000年
(*6) 「作家の発言 池田満寿夫」『みづゑ』1965年1月号、美術出版社