小金沢智様
不忍画廊での個展も終わり、こちらもすっかりペースが落ちてしまいました。申し訳ありません。もうそろそろ回数と時間を重ねてきたので、筆の置き所を見つけなくてはいけないとも思うのですが、絵画をめぐってということに焦点を絞りつつ進めなければなりませんね。
さて、前回の小金沢さんからの第9信では、《慧可断臂図》についてと、同様の図像の異なる素材の作品をご覧になったことをきっかけとして、小説には音楽のように一つの作品を複数人で作り上げることができない交通不能性があるということを思い出されたとのことでした。そして小説家は加筆修正を繰り返しながら複数回発表することがなく、小説は単行本、文庫本などの多少のアレンジはあってもその内容が変わることが原則的にない。それに対して僕の同様の図像の素材の異なる作品は、同じ作品なのか、アレンジなのかとおっしゃっていたと思います。まず、音楽と小説、そして絵画との関係について触れておきたいのですが、音楽にまつわる部分を読んでいて学生の頃などに運動部や軽音部の同級生のことがちょっと羨ましかったことを思い出しました。彼らはなんといってもやっている姿がかっこよくていつも注目の的だったのだけど、かたや僕ら美術をやっている男子はどれだけがんばっても作っている姿を教室の外からキャーキャー言われるなんてことは無いよなと思っていたものでした。今になって思えば、これは作品において「枠」の有無に由来する、想いを傾ける対象の違いから来るとも言えると思うのです。音楽や運動というのは、それ自体に目に見える形は無く空間に拡散されてしまっているので、視覚的には音楽を演奏したり運動をしている姿しか見る事ができないのです。だからそれを受け取る人は身体では運動や音楽を感じつつも、目では「人」を追っている。第一段階は「人」に向かわざるを得ないのではないでしょうか。だから運動部や軽音部がモテるのも仕方がないかなと思うことにしています(笑)。それに対して小説や絵画というのはどうかといえば、それぞれは本やキャンバスといった閉じた枠の中に収まっていて、表面的には対象を視覚的に認識することができます。だから受け取る人の第一段階は「作品」に向けられます。そして小説や絵画の入り口としての枠は閉じているので、能動的に読む、見るということをしなければ枠の中に入って認識することはできません。また、音楽のセッションのようにはできないというのは、音楽が演奏すると同時に聴かれるものであるのに対し、小説や絵画は制作と同時に鑑賞されるものではなく、事後的なものだからだと思うのです。そして作者といえども完成した作品とは物質的に交わることができないので、ただひたすら枠の外側から作品に目を向けて眺めるしか術が無いのです。
あと、小説家は一度発表した作品を、加筆修正を繰り返しながら複数回発表しないということについてですが、これは小説とはどういうものかと考えなければ分からないのではないかと思います。先ほど小説は枠に閉じていると述べたのですが、閉じている先で開かれているというか、読むということさえ受け入れれば、その時間の中に広がり、運動を感じることができるものなのではないかと思います。本に書かれた文字が作品なのではなく、それを通して受け手の中に生じるものが作品で、文字があればいくらでも形式的には同じものが再現可能です。また、言葉は抽象的なものなので、それを通して受け取り手の中に生じる印象は誤差があって、同じ「美人」という言葉でも思い浮かべる姿はみんな違ったり、時間をおいて読み直すと印象が変わったりもします。だから完成してしまった時点で書き手の元を離れてしまっているのではないでしょうか。だから小説家は、複数回発表しないのではなく、発表する必要がないということなのかもしれないと小説家ではない自分なりには考えます。ほかの例で言えば、落語の演目のように、発表するたびに枕が変わったり、何度聞いても面白いものなのだけど、本題の作品自体は代々受け継がれて変わりがないようなことにも似ています。そう考えると抽象という点で音楽とも共通する部分は多いように感じますが、言葉とはそういう側面を持っているのでしょう。それに対して絵画はどうかと言えば、その物質の方にも価値が生じるという側面があるので、本質は変わらなくてもアレンジをしたらそれはそれで物質的な固有の価値(アレンジのさじ加減によって差はありますが)を持つわけです。小金沢さんのご指摘の今回の阿波紙の作品についても、そういう点で一つのバリエーションと考えていただいてかまいません。こういった運動、音楽、言葉における現実(=眼前で起きていること)と理念との関係のことは、絵画における物質と像の関係と近しく考えることができるかもしれませんが、長くなりそうなのでここまでにしておきます。
そしてもう一つの話題、今回の展示の中で雪舟の《慧可断臂図》をもとにした作品(《(12-5) 慧可断臂》)が気になったとのことですが、小金沢さんに限らず多くの方から反応をいただきました。あの作品に対して気にかかる部分はいくつかあると思います。その中でも小金沢さんもおっしゃるように、達磨の表現についてと、遠近法など西洋絵画との比較については大きな部分を占めるのではないでしょうか。まず達磨の表現についてですが、実物の雪舟の《慧可断臂図》において、画面の周囲をぐるりと囲む岩肌の荒々しい筆致による密度のある表現に対して、画面の中心にある達磨は淡く太い線によって輪郭されるのみで、衣服の中は白く余白として抜かれている。岩の密度のある表現と衣紋の線の表現は、先行する牧谿の《観音遠鶴図》(13世紀、大徳寺蔵)の観音図にもあるような表現ですが、雪舟はそれをPCソフトのフォトショップを利用してコントラストをすごく強くしたような感じとでもいいましょうか、とてもはっきりとした強烈な印象にしています。水墨では白という色は描かれていない部分、つまり紙の地の色にあたります。雪舟のこの作品の場合の面白さの一つは、画面の主役たる中心部分が空洞で、周囲の表現とのギャップをつくっていることにあると思います。ここで地と図の関係というよく言われる言葉を利用しますと、物質的には地の部分が画面の中心になっています。しかし、ここで地と図の関係は逆転しているのかというと、単純ではないと思います。物質的には紙の色のままなので地と言えるのかもしれませんが、ある形に輪郭されている時点でそれは図になっています。輪郭が描かれなくても、霞の表現など水墨などでは描かれていない余白が風景、空間を表しているというのはよくあります。つまり観者の側が何かを見ようとしている時点でそれはすべて図なので、絵画には地と図の併置ということはなく、一筆描かれた時点で視覚的には図しかないのではないかと思います。物質的には描かれていない地の部分でも、観者の中では図、絵画が生まれている。このことは絵画について考える上でとても重要なことの一つだと思います。
僕の作品の場合は、地にあたる部分は全面ストレートなプリントをした写真なので、何もないように見える部分であっても対象がない部分はなく何かが写っていることになります。重ねるエッチングに関しては、均質なマチエールの線描が中心ですが、線描なので隙間だらけで隙間から下に重なっている写真の陰影が感じられるという仕組みになっています。絵画にとって絵の具や素材のマチエールとは、先ほどの話の絵画の物質に関わる部分であり、つまり絵画の血肉にあたるものとも言えるでしょう。エッチングの線は物質的なマチエールを持っているのに対して、その下地にある写真は表面が滑らかで凹凸がありません。しかし視覚的には陰影によって凹凸が感じられます。今回の《(12-5) 慧可断臂》ですが、達磨の部分にエッチングは重なっていなくて平滑です。つまり雪舟の《慧可断臂図》と同様にそこはマチエール的には空洞になっています。しかし観者の側で図を補完しようとするマチエールの空洞部分には、写真の図像が前面に現れていて先取りされてしまっているので、観者の視点はマチエールと写真の図像の間で落ち着きどころを失い宙吊りになってしまうのではないかと思います。このことは、小金沢さんが第1信で、平面と立体のインスタレーションを行き来して見ているうちに「どちらも存在が不確かであるように見えてきて、引き裂かれているような思いを感じて立ち尽くしてしまいます」と指摘していただいている点と共通するのではないでしょうか。僕は絵画にとってこの宙吊り状態というときにこそその本質に近づけるのではないかと思っていて、絵画はあらかじめこちらで結論を設定できるものではなく、あらかじめ用意しない不意の宙吊り状態でこそ体感できるものなのではないかと思っています。
《慧可断臂図》におけるもう一つの特徴の西洋の遠近法との比較や対象の認識などについても書きたいことはあるのですが、ここまでですっかり長くなってしまったのと、少し絵画の本質に触れるような話もできたので、あとは蛇足だろうということで今回はここで止めておきます。
あと、お答えするのを忘れていましたが、第9信での最後のご質問、今後の展開で様々な素材を使用していくことも考えているか、についてですが、先日名古屋市美術館でやった『ポジション2012』に出品したミラーフィルムの作品や今回のインクジェットの作品、ドローイングなど少しずつ試してはいます。現時点でこういう素材を使おうという案はありませんが、絵画については一つの方向からではなく、多角的な表現をしていくことで交差点が生まれ、仮説としての焦点が見えてくるのではないかと思うので、今後も試していきたいと思っています。
最後に第1信のときの小金沢さんの〈わからなさ〉ということについて、ここまででそれに変化が出てきているかといったことなどお聞かせいただきまとめてもらえればと委ねて終わりたいと思います。
山田純嗣