池田 敏章
1982年(昭和57年)、京都先斗町の小さな画廊で初めて斎藤真一画伯の瞽女作品に出会ったのでした。その時の感慨を私はいつまでも忘れる事はありません。その画廊で私と同じように瞽女を描いた作品に出会い、たちまち惹きつけられた人がいます。その人、伊藤謙介氏が私のことに関して昨年12月に京都新聞へ執筆寄稿されました。伊藤氏は京都にある企業、京セラ㈱で社長・会長を歴任され現在は相談役としてご活躍されている方です。
伊藤謙介氏の寄稿文「一心の生き方」の中に「池田さんも同じ画廊で斎藤真一の画に出会い、時間のたつのもわすれ、立ち尽くしたという。瞬時、美の魔物がとりついた。」と記述されていました。
「美の魔物がとりついた」という言葉ほど、私が初めて観た瞽女作品に対する感慨を的確に表現した言葉はありません。
以後、私は三十年余に亘り斎藤作品をコレクションしました。それこそ日本中を駆け回り、総点数にして200点ほどになったのでした。その内150点余を、一昨年(平成23年)上越市に寄贈しました。昨年(平成24年)には、上越市立総合博物館で展覧会を開催していただきました。
再び伊藤謙介氏の寄稿文に「今年の冬は雪舞う北国を尋ねてみたい。「雪降らばゆかむと君にちかいたるその新潟に雪ふるといふ」、吉井勇の切々たる恋情の歌を「瞽女」の誘いのように思い出す。戸外を風にのって枯れ葉が蝶のように飛んでゆくのを静かに眺めている。美しい魔物を追い続けた池田さんの生き方を眩しく想いつつ。」こう締め括られていたのです。
私にとっては身に余る、涙感溢るる、お言葉をいただいたことと思っています。感謝の言葉も出てきませんでした。
私がそこまで斎藤真一画伯の作品に傾注したのには不忍画廊の存在があったからなのです。
私が不忍画廊に初めて訪れたのは1993年(平成5年)でした。
その二年前の倉敷市立美術館での斎藤真一展の時から、斎藤のことが少しずつ気になりだしていたのです。斎藤自身の文章や、評論家の論文など。そして、略歴や新聞記事、雑誌記事などを。
平成6年斎藤真一画伯逝去。そして、平成9年に不忍画廊荒井一章氏から、上越市立総合博物館での「斎藤真一が描く高田瞽女越後瞽女日記展」開催の連絡をいただきました。
展覧会初日の式典に参加し、昼食時には荒井氏により、斎藤家御家族や関係者の方々に私のことを紹介していただいたのです。
この事が、私を尚一層斎藤への傾注を深めたのでした。斎藤に関するものを求めて日本中、此処彼処と巡りました。美術館、画廊、国会図書館、地方の図書館。資料を探求する時、必ず作品に出会うのでした。こうしてコレクションが充実したのでした。
私が不忍画廊に行かなければ、荒井氏から上越展開催の連絡をいただかなければ、今日の私はなかったことでしょう。
平凡な家庭生活の中で、絵の好きな親父となっていたかも知れません。
斎藤真一研究家・コレクター(北海道恵庭市在住 2013年1月 63歳)