私が斎藤真一の絵と出会ったのは1964年、青木画廊の主催する銀座の文藝春秋画廊の個展であった。私は新聞社のサラリーマンをやめて画商の道に迷い込んでいた。そんな時出会ったのが斎藤真一の絵であった。日本的外国風景とでも云おうか、火の見櫓と山高帽の紳士が同居している。火の見櫓には梯子に登り赤い裾をひるがえし、髪に赤玉のかんざしをさした八百屋お七が半鐘を叩いている。そして私はこの絵を求めたのである。画商になって最初に買った絵がこれだ。
一週間もたった頃、上野・池の端の不忍画廊にオートバイに乗った斎藤真一さんが現われた。伊東の高校で美術の教師をされているという。文学青年の絵かきであった斎藤さんは、東京芸大の師範科を出て郷里の岡山で中学の美術教師をしていたが、好きだった川端康成の小説「伊豆の踊子」にひかれて伊東の高校に移ってきた。当時は日展・光風会に出品、光風会賞も受賞している。普通のアカデミックな傾向の油絵だった。それが変わった。1959年、37歳の時、一年間休暇をとってヨーロッパへ遊学する。一つの目的は、紹介状を持っての藤田嗣冶をパリのアトリエに訪ねることであった。そしてフジタに会えた。フジタは戦争協力画家のレッテルを貼られ日本を逃れていた。フジタは斎藤真一にこう云った。「自分はもう日本に帰れない。君は日本にいられていいな。しかし昔の日本はもうないよ。東北地方には、古き良き日本がまだ残っている。東北を描きなさい」とアドバイスをされる。これが斎藤さんの絵画人生を変えたのである。
津軽を訪ね三味線の音色を追っていくうち、瞽女唄にたどりつく。滅びゆく盲目の女旅芸人―瞽女の生と死を記録し描くライフワークをみつけたのである。オートバイに乗って週末越後に向かい、瞽女の道をたどり、その足跡を追う。いうなればフィールドワークの画家版とでも云おうか。
不忍画廊へ来たのは、私に個展で自分の絵を買って貰った礼と、越後への取材の旅の費用を捻出するため、毎月絵を買い取って貰えないかとの打診であった。私は提案をうけいれ、少額ではあったがこうして毎月小品4~5点が私のコレクションとなっていった。二階建ての木造の小画廊の二階スペースには斎藤真一の作品だけが並ぶようになっていった。この頃のコレクターに写真家・秋山庄太郎さんがいる。不忍画廊の裏にある旅館で秋山さんや吉行淳之介さんたちが麻雀をかこむ日が時折あり、早目に来て画廊をのぞいては斎藤真一の絵を買って頂いたものだ。
私の手元に斎藤真一作品が60~70点集まった頃、斎藤さんが私の義父・木村東介の手紙をたずさえてやって来た。「実は・・・」とその手紙を差し出し、読むと自分が瞽女の絵を応援するから持ってくる様にという内容であった。いうなれば、羽黒洞木村東介と契約しないかということであった。正直なところ、ストックが多くなってきており、好きな絵であっても自分の力を超えているのが現状であり、斎藤さんには義父の申し出に添うようにすすめた。長谷川利行や肉筆浮世絵を命がけで集め、世に顕賞、普及した気骨の画商の手にゆだねた方が、はるかに世間にアピールされるはず、と私は判断したのである。
そして数年後その通りになっていった。私が斎藤真一の絵と最初に出会ったところも同じ、銀座の文藝春秋画廊で、羽黒洞・木村東介主催による「斎藤真一 越後瞽女日記」展が開催された。黒い壁面に吊るされた真赤な色を基調とする作品のそれぞれにスポットライトを当て、浮き上がってくる独特の真紅。また画廊の外へは津軽三味線の激しい音を流した。道行く人はぞろぞろと画廊に入ってくる。今まで見た経験のない作品群の熱気に当てられてしまった。ここで斎藤真一はたちまち日本画壇の寵児となっていった。そして30年たつ今も多数の愛好家に支持され続けている稀有の画家と云えよう。
(あらい かずあき/不忍画廊会長)