「山田純嗣×小金沢智 往復書簡<絵画をめぐって>」005

 

山田純嗣様

自作の図像に対する既視感を探ったことが過去の絵画をモチーフにすることに繋がったこと、そしてそれが、学生時代ほとんど絵を描く学生がいなかったという言わば世代の問題にも端を発しているということ、とても興味深い発言です。今年の2月に美術家の中村ケンゴさんが、銀座のMEGUMI OGITA GALLERYで、「20世紀末・日本の美術—それぞれの作家の視点から」というシンポジウムを企画しました。作家の視点から20世紀末の日本の美術を検証しようというもので、他のパネリストに眞島竜男さん、永瀬恭一さん、そして作家ではない立場から、美術編集者で評論家の楠見清さんがゲスト・コメンテーターとして参加されています。内容はウェブにアップされているのでご一読いただければと思いますが( http://jart-end20.jugem.jp/ )、僕がケンゴさんの発言で特に関心を抱いたのが、山田さんも今回おっしゃっているようなこと、つまり当時「絵を描く学生がいなかった」ということです。ケンゴさんは1969年生まれですので、1974年生まれの山田さんとは五歳違い。シンポジウムは主に東京のアートシーンを語ったものでしたが、活動する土地は違えども、山田さんも近い境遇があったのだろうと今回のお返事を受けて想像しました。長いのですが、このくらいしないと意味が通りにくいので、ウェブから引用しますね。1995年(平成7年)の箇所です。

————————————————————————————————————————–

中村:95年というのは色んな意味で日本の文化の転換点とも言われています。美術史的に言えば、中ザワヒデキさんが80年代を読み直そうっていうことをやってらっしゃるんですけど、僕もそれに影響されたところがちょっとあって、それで中ザワさんが言うには、奈良さんのような絵がこの時点で初めて「アート」というお墨付きを得たと。奈良さんの作品がどうこうということではないんですが、そういう絵は80年代からイラスト方面ではたくさんあったんだけれども、小山(登美夫)さんなんかが、これはアートだって言った瞬間に、アートシーンに入ってくるっていう。それでちょっと言いたいことは、1995年以前、「ザ・ギンブラート」にしても、「新宿少年アート」にしても、眞島さんの天ぷらにしても、いろいろ紹介しましたが、とにかく美術やってるやつで絵なんて描いているやつなんていなかった。
眞島:描いていたけれど、全く見えなかったわけですね。
中村:そうです。そういう意味では、僕も永瀬さんも同じなんです。たとえば当時、たとえばクラブで遊んでるときなんかに、自分と同じようなクリエイター志望の子がたくさんいるんだけど、何になりたいかって聞いたら、だいたい写真家か、あとはCDジャケットをデザインする人とか言うんですね。当時写真ブームがあって。あとMacも一般的になっていた。つまり、絵描きなんていうのはクリエイターになりたい人たちの将来の目標としてはない時代なんです。…そういえば80年代の終わりくらいから、「オブジェ」という言葉が生まれたり、「インスタレーション」っていう言葉が出てきたりとか、あと絵画、彫刻って言わずに、平面、立体とか言わなかった?
眞島:今でもそうでしょう。あ、でも絵画っていう言葉は、あの頃より使われるようになりましたね。
中村:今って絵画ってふつうに言うけど、当時けっこうマイナーな感じだったよ。気取ってペインティングとか言ったりしてたけど(笑)。奈良さんの登場で、抽象表現主義的でない絵が出てきたっていうのは一部ある。それからコマーシャルギャラリーも増えてきて、絵画っていうものが商品になるということもあった。

————————————————————————————————————————-

ここでケンゴさんの言う「とにかく美術やってるやつで絵なんて描いているやつなんていなかった」、そして眞島さんの「描いていたけれど、全く見えなかったわけですね」という発言は、山田さんの「絵を描く学生がいなかった」という発言と符合します。ここで語られている時代の空気感みたいなものは、僕のように実際にその時代その場にいなかった人間には必ずしもわかりやすいものではないのですが、そういう時代を経ての、今の山田さんの作品があるということを知る必要があると感じました。

前回書いた「作者が二人いる」というのは、送ったあとに「しまった」と思ったところもであって、というのは、作品における過去の絵画との関係を非常に単純化してしまっているところがあるからです。二人いるというよりも、複数いるとした方が、この意味では正確なのではないか。それはモチーフとなっている絵画の作者だけではなく、そのモチーフとなっている絵画の作者がその絵画を制作するにあたって参考にしたであろう絵画も含まれるかもしれない。そう考えていくときりがない話ではあるのですが、絵画はそもそもそうやって過去の絵画から学びながら新しく生成され続けている歴史があります。それは図像レベルの引用に留まらない。

山田さんは今回のステイトメントの一行目に、「最初の一行目を描き出す」と書いています。ステイトメントがなかなか書けない状態にあり、しかし、そう書いたことによって、書くこと(考えることの)の運動がそこで具体的に始まることになる。これは僕も感覚として非常によくわかります。文章を書くときにどうしても困ったときは、まずなんでもいいから書いてみる。白紙のままではなかなか思考は進んでくれません。それは絵画で言うならば、まずカンヴァスに一筆入れてみる、ということと近いのでしょうか。
そして、そういった「絵画」の「運動」のことを示す言葉のたとえとして、〈絵画をめぐって〉に「生きているのか、死んでいるのか」と付け加えたとあります。ここで面白いのは、ステイトメントには3つの運動について書かれているということです。まず、冒頭にあるような、作り手側の運動。そして、そうやってできた作品自体の孕む運動。最後に、それを見る、その作家も含む鑑賞者側の運動。それぞれ意味合いは異なりますが、ひとところに留まらずに動き続けるものとして山田さんは「絵画」を捉えている。そしてボスの《快楽の園》をはじめとして、モチーフとなった過去の絵画作品には、そのような絵画自体の運動が内在している。
こうして話を伺ってみて改めて伺いたいのは、最後に山田さん自身触れられていますけれども、それをペインティングでなくして行なっているということ。話が戻ってしまいますが、それは学生時代に「絵を描く学生はいない状況」を経験したからこその、現在の技法と考えてよいのでしょうか?

小金沢智