山田純嗣 様
大変興味深いお返事をありがとうございました。
絵画をめぐる話のはずが、にわかに言葉をめぐる話にもなりそうで、とても嬉しく思います。
今日はレセプションですね。今日から出張のため伺うことができず、残念に思っています。またもお会いする機会を逸してしまいましたが、既に鬼籍に入った幾千の作家たちとはこのようにメールをすることも叶わないわけですから、贅沢は言えませんね。作品と言葉を通してその思考に触れることができることを、なによりの幸甚と思わなければなりません。
さて、6日(火)に展覧会を拝見しました。ボスの大作をはじめ、雪舟、ミレー、ゴヤ、バッラ、そして六道絵など、古今東西の絵画が山田さんの手と目を通して新たに立ち上がっているさまは、まさに圧巻でした。それらの「名画」とも呼ばれる作品群は、山田さんの言葉を借りるなら、むしろそれゆえに文字のような「記号」と化しているように思います。それらのオリジナルは、たとえば「教科書で見たことがある」というような言われ方をされ、既視感が見るものに「向こう側の世界に触れる」ことに対してのフィルターをかけているのではないでしょうか。「名画」という言葉や先入観は、ともすれば思考の単純化/停止を促す、恐ろしい強制力があるということです。けれども、山田さんは見るものの既視感すらも構造として作品に取り入れることで、「既視感がある名画の異化」を入口として、作品自体が「向こう側の世界」に見るものをにじり寄らせるところがあるのではないかと思います。
そこで言う「向こう側の世界」には、オリジナルの作品を描いた作家の思考と、山田さんのそれに対する理解や解釈とが、同時に切り分け難く存在している。またしても〈わからなさ〉について述べさせていただくならば、それを感じるのは山田さんの作品の制作過程が複雑であるがゆえに、「向こう側の世界」にすんなりいかせないからではありません。むしろ〈絵画をめぐって〉シリーズは、ともすれば記号的でもある「名画」の異化という構造によってすんなりと「向こう側の世界」へ行かせてくれる(と僕は思う)のだけれども、その「向こう側の世界」へ行ってみると作者が二人いる。そのことが、怖れや戸惑いのようなものを少なくとも僕の中に生じさせる原因なのではないかと思います。
話を抽象的な方向へ滑らせてしまいましたが、単純化せず、言葉にし難い感覚を丁寧に掬い取っていくということを、山田さんの作品を前にするとき、改めて大事にしなければいけないと思うのです。山田さんが古今東西の絵画をモチーフに作品を制作することで、不在の作家の思考に触れているように、山田さんの作品を見る側も、たとえばそれまで使ったことがない言葉を用いてみることで、馴染みの薄い言葉たちを次第に血肉化し、見方や考え方を鍛えていく。どうやら〈わからなさ〉は、そのような回りくどい道筋を辿ることでしか解消されない/先に進ませることができないようです。しかしそれを積極的に引き受けることで、新しい回路が開けていくのでしょう。
そもそも、山田さんが〈絵画をめぐって〉シリーズをはじめた発端、意図はどこにあったのでしょうか?
それを最後にお聞きして、第3信を終えたいと思います。
小金沢智