「山田純嗣×小金沢智 往復書簡<絵画をめぐって>」002

小金沢智 様

返信が遅くなりました。不忍画廊での僕の個展に合わせた往復書簡の企画についてご快諾いただきましてありがとうございました。
僕自身このような企画は初めてで、どのように進めたらいいか分からないのですが、 話がいろんな方向にふらふらしたらそれはそれで充実するのではないかと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

未だにお会いすることができずにいますが、SNSのおかげで、 お互いどんな生活をしているか僅かながらもその一端を知っているという不思議な状態ですね。 文字という記号を通してその向こう側にいる人を想像するというような状態とでもいいましょうか。さて、そのことでも思い出すのですが、前回いただいたメールに<わからなさ>の理由の一つとして、僕の平面作品が版画であって複数存在し得ることを挙げられていたと思います。 この疑問を読んで、なるほどなと思いました。 僕自身は普段、複数つくり得ることについては結果であってあまり意識していないのですが、 作品制作においては、手元の作品に触れながら、その物質ではなくその向こう側にある世界の方に触れているのだと思っています。 それは、まさに複数存在し得るこの文字のような記号を通してその向こう側にいる人を想像することと近いと思います。つまり作品が複数存在しようと、単一であろうと、物質自体ではなくその向こう側の世界に触れようとしているので、 目の前のものは記号、イコンのようなものとも言えるのですが、でも目の前の僕の作品は確かに簡単ではない質感のものなので、それが向こう側の世界にすんなりとは行かせない居心地の悪さになるのかもしれません。

そもそも記号というのはトイレの男女のマークでも、地図記号でもどんな物でもシンプルにできている/シンプルさを目指しているもので、そう考えると僕の作品は記号というにはあまりにも物質的に複雑で、記号にはなり得ないのかもしれません。先ほど文字も記号と書きましたが、単語としての言葉はいかにも記号的ですが、 それを記号的に捉えてしまうと誤った理解になってしまうのではないかと思うのです。どういうことかというと、言葉でシンプルな言葉ほど実はわからないということです。

たとえば「愛」だとか「死」だとか。これらはこれがそれだと指で指し示すことができないものですし、これらについて「わかった」と言って得意げに語る人はなんだか信用ができないものです。いつまでたってもわかったと言い切れないものではないかと思うのです。つまり、シンプルな記号のようなものにもわかったとは言い切れない、記号的には理解ができないものが存在していると思うのです。「愛」だとか「死」だとかを知るには、外から眺めるのではなく、その過程の中に身を投じてしかそれに近づくことができないのではないかと思うのです。 話が作品のことからだいぶ離れてしまいましたが、僕は2009年のC・スクエアでの個展のステートメントで「愛」と言う言葉を使ったり、今回の個展でも「死」という言葉を使っているので 、あながちこういったことと遠いことではないと思っています。

そして、僕の作品において小金沢さんのもう一つの<わからなさ>、複雑な工程を経て作られているということについてですが、先ほどの「その過程の中に身を投じてしかそれに近づくことができないのではないか」という仮説が元になっています。いや、なっていますというか、近づこうとした結果工程が複雑化したという方が近いです。制作の行為の中には、記号化された言語ではなく、本来の意味とは離れているかもしれないけれど直接世界に触れることができる言語があるのです。一つの例として、僕が中学3年の夏、初めてデッサンを習いに予備校に通い始めた頃、こういう経験がありました。そこで講師からデッサンの指導でやたら「空間」という言葉が繰り返されていたのですが、最初は聞き慣れない言葉で何のことだかさっぱりわかりませんでした。でも沢山描いていくうちに、自分の中にも「空間」という言葉でしか表現できないものが理解できるようになり、共有できるようになりました。言葉というのは一つの仮の姿でしかなく、その先で言いたい事はもっと身体的なものなのでしょう。

最後に、今回のタイトル「死んでいるのか、生きているのか」について。小金沢さんのご指摘はなかなか鋭いと思いました。まさに死んで“いる”というところはポイントです。僕らは「ない」という事について、「ある」ということからしか言う事ができないのです。「わからない」「殺さない」「愛さない」…。これらはすべて「わかる」「殺す」「愛す」ということがあって初めて成り立つ言葉です。「死」という状態は「無」を表すのですが、ただの「無」ではなく、その前に「生」がなければ存在できず、そういう点では「ない」と同じものだと思います。つまり、小金沢さんの指摘のとおりどちらにしても存在しているのです。ただ、「生」は「死」によって終わりますが、「死」については無でありながらずっとあり続けるという点も興味深く、ずっとあり続けるというのは、生きている僕らにとっては<わからなさ>の極地なのではないかと思います。

最初からとりとめなく若干長くなってしまいました。今後ともよろしくお願いいたします。

山田 純嗣